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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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 ヨブは、29章では過ぎし日の順風満帆の暮らしにもどれたらいいのにと語っていたが、30章では現実の自分に降りかかった災難、病気になったために、助けてやった人の子供たちからも蔑まれて、「しかし今は、」と現状を語っているのである。現代風にいうと、まるで「金の切れ目が縁の切れ目」になって、みんな去っていく状況であります。


 それが私たちの姿でもあるのではないでしょうか。果たして、今ある私たちの親しい友達がヨブのように窮地においつめられ、病気になった自分にどれだけ寄り添ってくれる人がいるだろうか、また、その逆に、自分がどれだけ友のために寄り添ってあげることができるかが問われるところです。


 しかし、ヨブはそれでも答えのない神に叫んでいます。だが、20節~23では、神はヨブの敵となったと述べています。


「私があなたに向かって叫んでも、あなたはお答えになりません。私が立っていて

も、あなたは私に目を留めてくださいません。あなたは、私にとって残酷な方に変わり、御手の力で、私を攻めたてられます。あなたは私を吹き上げて風に乗せ、すぐれた知性で、私を翻弄されます。私は知っています。あなたが私を死に帰らせることを。すべての生き物が集まる家に。」20節~23節


 ヨブの神に対する叫びは、神がヨブの敵、ヨブを苦しめ、殺す者になられたと語っている。それもみな神の沈黙のゆえにヨブの心が苛立ち絶望のゆえに起こったことではないでしょうか。ヨブの一方通行、つまり神の応答のないことはどれだけ彼をどん底に落とし入れられたことでしょうか。神から、友から、妻から見放された彼の状況がイエスさまと重なった思いがします。このような時に私たちだったらどういうふうな応答ができるのかと考えさせられます。



 主の御名を心から賛美します。

ヨブの苦しみ、神からの応答がない日々を悶々と痛みと屈辱の中にある彼の叫びが心に響いてきました。もし、私たちがヨブのような境遇に面したときには、思いきりあなたに叫び続けます。その時は、どうぞ答えてください。あなたが私たちの叫びを聞かれておられることを信じてすべてを御手の中にお委ねいたします。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


 

「私は義をまとい、義は私をおおった。私は公正さは上着であり、かぶり物であった。」(14)


 23章から31章にわたって延々とヨブの言い分が続きます。その言い分の要点は、「私は義人である」ということです。その義(正しさ)の根拠として、29章では、「それは、私が叫び求める苦しむ人を、身寄りのないみなしごを助け出したからだ。」(12)と述べています。さらに「私は目の見えない人の目となり、足の萎えた人の足となった。」(15)など、自分がいかに苦しんでいる者を助けたかを述べています。

 聖書、特に律法における義の内容として、貧しい者、病んでいる者、困窮している者を助けるということが含まれます。まさに隣人を愛することが正しいことなのです。


 しかし例えばイエスの時代においては、ルカ10章に記されている「良いサマリヤ人」のたとえは、ユダヤ人がサマリヤ人を差別しているという背景があります。 

 律法学者はイエスに対し、律法で大切なのは神を愛することと隣人を愛することだと答えました。しかし、実際にはユダヤ人はサマリヤ人を差別しているのです。隣人として愛していないのですから矛盾しています。

 しかし、ユダヤ人にとって、サマリヤ人は隣人ではないとみなされていたのです。だから愛する必要はないのです。その欺瞞を自覚させるために、イエスはこのたとえ話を語りました。

 それにしてもとんでもない理屈です。しかし歴史の中で、一部のキリスト教会は黒人差別を肯定するために、あるいは植民地政策、侵略を肯定するために、黒人も現地人も、彼らは神のかたちに造られた人間ではないという理屈から、彼らを隣人愛の対象から除外したのです。


 しかしイエスがされたように、私たちの隣人に例外はありません。私たちに関わり、出会う人はみんな隣人です。自分を愛するように愛するべき対象なのです。例外はありません。


 ここでヨブ記に帰ると、結局ヨブは、確かに正しいことを述べているのですが、その義を自分の義としてしまい(自己義認)、結果として正しい者を裁く神の方が間違っているとまで考えてしまうのです。

 神の義を自分の義にすり替えてしまう時に、私たちは道を誤ってしまいます。


天の父なる神さま

 何が本当に正しいことなのか見分ける力を与えてください。そしてその本当に正しさに生きることができますように、どうか聖霊の力を与えてください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

文:関真士


 

『神の知恵』


 聖書には、神の啓示があります。つまり私たちの創造主たる主はどのようなお方であるかの啓示、説明がされているわけですが、大きく分けると、その啓示方法が二つあるのです。一つはこの自然を通じで、神がお造りになった被造物を、私たちが観察する事によって、そこには神の啓示を見ることができるという一般啓示に対して、もう一つ、特別啓示と呼ばれるのですが、神の御子である、主イエス・キリストを人の子として、この世に送りましたので、主イエス自身が神とはどのようなお方なのかを直接、人間に説明もしくは示された、これが特別啓示であります。


 この28章には、自然を通じての一般啓示に関係しているのではないかと思うのです。人は金や銀を求めて、宝石を求めて鉱山を掘ってゆく、しかし本当の宝であるのは神の知恵で、山や海の深淵は言う「私の中では知恵はない」と海や山を擬人化して、神の知恵は、私たちのところにはないと、うまい表現をしているのです。


 箴言2章にも知恵が登場します。2〜6節抜粋「あなたの耳を知恵に傾け、心を英知に向けるなら、隠された宝のようにさぐり出すなら、そのとき、あなたは主を恐れることをわきまえ知り、神を知ることを見出すようになる。主が知恵を与え、御口から知識と英知が出るからだ。」主を恐れ、神を知ることが知恵と表現されています。そして究極的に、神を知ることは。特別啓示である、人の子としてこの世に来られた主イエスを知ること、主イエスが神の知恵だと思います。


 ヨブ記に戻って、23節「神は知恵の道をご存じであり、神こそ、それがある場所を知っておられる。」こうして神は、はっきりと神の知恵を示すために、主イエスをこの世に送り、主イエスの行ったしるしと主イエスのみことばをもって、自然界で示されている間接的は方法とは、全く異なって、直接に私たちに、神の知恵を示してくださったのです。


 28節『こうして、神は人間に仰られた。「見よ。主を恐れること、これが知恵であり、悪から遠ざかること、これが悟りである。」と』このヨブの言葉は深淵です。彼は、自然界を見て神の知恵を求め、やがて主を恐れること、この恐れるというのは恐怖ではなく、畏れ多いの畏れではないかと思うのですが。神を心から崇める畏れが、知恵であることをはっきりと理解しているのです。


祈り

私たちには、ヨブの時代とは異なって、はっきりと神の知恵である、主イエスのみことばが与えられていますことに感謝致します。山にも海にも神の知恵は隠されていますが、主イエスによってはっきりと神の知恵を頂きました。ありがとうございます。アーメン 

文:森 宗孝


 
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