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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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 エリフのヨブに対する語り方は最初はとても親しみを感じるが最後のほうにいくとかなり命令的な語りになっていく。


「なぜ、あなたは神と言い争うのか。自分のことばに、神がいちいち答えてくださらないからといって」13節


 エリフは、神は人が人に答えるように応えてくださるような方ではないのに、ヨブがそのような期待をしていることがそもそも間違っている、と言っています。 しかし、神は一切答えてくださらないわけではなく、人とは違う方法で答えてくださると言っています。その方法とは、「夢」「幻」「恐ろしい(体験)」などです。このような様々な方法で神が語ってくださっているのに、人間の側が「それに気づかない」だけなのだと言っています。


 さらに、神の答えは19~22節で「苦しみ」も神さまの語り掛けの一つだと語っています。今のヨブの苦しみは、神からの応えであるのに、ヨブはそれに気づいていないので、神に不満や愚痴を言っています。「なぜ応えてくれないのですか」と一人で苦しんでいるのです。


 ある人が旅先で貴重なものを紛失してしまいました。いろんな所に問い合わせたり、同伴者と二人で持っている物をひっくり返したりしましたが見つかりません。大変な窮地に追い込まれた時に、彼はそこで神が、自分自身が他者に高慢になっていたことを指摘されて、すぐに悔い改めて、その方を祝福してくださいと祈ったそうです。すると、奇跡がおこりました。紛失していたものすべてがそのまんま戻ってきたそうです。彼はよろこんで神に感謝の祈りを捧げたそうです。これは、神さまがその人に罪を示して悔い改めを与えられる時をあたえてくださったものだとその人は言っていました。


 何かが起こることは、必ず神の応答があるということです。私たちは常に、神の語り掛け、夢、幻、恐ろしい体験、苦しみ、などを通して語られる、示されることに気づけるようになりたいものです。


 

 ハレルヤ!主の御名を心から喜んで、賛美します。

今日の御言葉を感謝します。神の応答を聞く素直な心が与えられますように、そして、自分の罪が指摘されたらどんな時にも悔い改めの祈りをすることができますように導いてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


 

 ヨブ記32章では、エリフという年若い彼が登場し、これまでの沈黙を破り、語り始めます。エリフは年下であるため、年長者たちのやり取りを黙って見ていましたが、ついに我慢できず、自分の考えを述べ始めます。


「確かに、人の中には霊があり、全能者の息が人に悟りをあたえる。」8節


 私たちは時に 「年長者の言うことが正しい」「経験のある人の方が賢い」 と考えがちです。しかし、エリフの言葉は知恵は神さまから来るということを教えてもらいます。 どれだけ知識や経験があっても、神さまの導きがなければ真実を見ることはできないということです。


 18節「私にはことばがあふれていて、内なる霊が私を圧迫しているからだ。」


 18節のようなエリフの心の内をみると、信仰に熱心で熱く燃えている若いクリスチャンリーダーが思い浮かびます。時に若い世代から痛いところを突かれるような場面を思い起こしますが、エリフの語る姿は的を射た真理がふくまれていることも事実だと思うのです。


 私は、エリフがとても高慢で生意気にも映るのですが、同時に彼の言葉には信仰の深さからくる熱意も感じられます。この32章を通して、私はエリフの言葉に共感しつつも、同時に複雑な思いを巡らせています。


 正しいことを語っているつもりでも、その「語り方」によって、相手の心に届かないこともあるのかなと思ってしまいました。自分の感じていることが正しいと思い、つい言葉が強くなってしまうことがある時こそ、自己の思いや感情ではなく、真に神の霊によって導かれているかを吟味し、謙虚な心や敬う気持ちが必要であるのではないかと改めて教えられました。



 愛する天のお父さま あなたの知恵を日々の歩みに与えてください。自分の知識や経験に頼りすぎることなく、いつも御霊の導きを求める者でいられますように。真実を語るべき時には、恐れずに語る勇気を、そして語る時には、相手を敬い、謙虚な心で接することができるように助けてください。 イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン


 

 この章で、ヨブの独白は終わります。ヨブが、いかに自分が潔白であるかを告白していて、神様はどうしてサタンの試みを良しとし、苦難を与えられたのか、もう一度振り返りたいと思わせる章です。過去の栄光を振り返り、今の不幸を嘆いていたヨブでしたが、気を取り直したかのように、頑なに自身の潔白さを主張しています。しかも、1節では、「私は自分の目と契約を結んだ。どうしておとめに目を留められるだろうか」と問いかけ、表面的な行為に留まらず、心の動機にまで掘り下げて語っています。「神は私の道をご覧にならないだろうか。私の歩みを全て数えておられないだろうか。」と4節で語り、神の御前での正しさを、心の奥のこととして語り、自分の歩みは神のまなざしに耐えられるものだと主張します。


 5節からは、もしという接続詞を用い、12の罪を取り上げて自らの潔白性を主張しています。色情、虚言、貪欲、姦淫、奴隷の人権無視、貧者の切り捨て、拝金主義、偶像礼拝、敵への非情さ、客人、旅人への配慮のなさ、罪の隠蔽、搾取等。ヨブはこれらのことばに、間違いはない、何なら署名しようとさえ語っています(35節)。


 ヨブの正しさ(潔白であること)は神も認めておられ、ヨブの友人たちが、ヨブに隠された罪があったのではないかと攻撃しましたが、そのような事実はないのに、その上で、神様は苦難を下されました。まさにそれは、全く正しき者が苦難を受けるイエス様と重なります。


コリント人への手紙第二5章21節 「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。」



主の祈り:ヨブのように、私は自分がどれだけ潔白であるかを告白することは出来ません。でも、私たちの罪をゆるして下さり、聖霊様を送って下さり、いつも私たちと共にいて下さることを感謝します。イエスキリスト様の御名によって祈ります。アーメン


 
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