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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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 この章は、パウロが「ああ、愚かなガラテヤ人。」と言って、彼の落胆あるいは失望で始まります。「私のためにイエスが十字架につけられ、私の罪が赦された」というイエスと自分の関係がはっきり分かっていたはずです。それが分かったのは律法を守ったからではなく、十字架による救いを信じたからではないのですか。信仰の出発点は律法を守ろうと努力することではなく信じることだったのに、もっと強いクリスチャンになるために、律法を守ろうとするのですか。神があなた方に聖霊の力を与えてくださったのは、律法を守ったからではなく、キリストを信じたからではなかったのですか。


 アブラハムも同じ経験をしました。アブラハムは神の約束を信じることによって、正しい人と認められ、天国に入る資格が与えられました。信仰に生きる人は皆(ユダヤ人もそれ以外の人も)アブラハムの子孫です。天国の資格が与えられています。それは聖書が前もって言っていたことです。「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」と。神はこのようにアブラハムに語られたのです。


 一方、律法を守ることによって救われようとするものは神に呪われます。なぜなら律法を全て守りきることはできないからです。守らなければ呪いというのが律法の約束です。本来なら守らなければならない律法を守れなかった私たちは神から呪われる存在でしたが、キリストは私たちを律法の呪いから解放してくださいました。


 アブラハムに約束された「信仰による救い」の約束はその後430年後に律法がモーセに与えられた時にも有効でした。では律法が与えられたのはいったいどういう意味があったのでしょう。それは神のいましめがどのようなものであり、そのいましめを守らないということがどれほど罪深いことかを人々に示す為でした。その有効期限はキリストが来られるまでです。モーセに与えられた律法はみ使いを通してでしたが、アブラハムは直接神さまから与えられた約束です。


 そうであれば、律法は神の約束に反するものでしょうか。そうではありません。律法は私たちの罪を自覚させるためのものです。キリストが来られるまで、律法は私たちを監視し、守るためにありました。またやがて来るキリストへと導く養育係の役割があったのです。しかし今や私たちは信仰により、神の子とされました。ユダヤ人もそうでない人たちも、奴隷も自由な人も、男も女もみな同じクリスチャン、キリストにおいて一つです。アブラハムに与えられた約束を私たちも相続したことになります。


主の祈り:イエス様が十字架上で犠牲になって下さったゆえに、律法によらず、信仰によって救われたことを心から感謝致します。この豊かな恵みを、そのイエス様を知らない人々に伝道出来ますように、聖霊様助けてください。尊いイエス様のお名前によって祈ります。アーメン


 

「しかし、人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。律法を行うことによってではなく、キリストを信じることによって義と認められるためです。というのは、肉なる者はだれも、律法を行うことによっては義と認められないからです。」16節


 ガラテヤ書は、パウロの信仰の本質を示す重要な書だと言われています。ガラテヤ2章では、神がパウロに啓示してくださった福音の真理が説明されていると言われています。


 ガラテヤ16節で、パウロは福音の本質を語っています。律法を完全に守ったゆえに義と認められる人は、たとえユダヤ人であろうと一人もいない。ただ、キリストを救い主と信じる信仰によって義と認められると言われています。そして、パウロは19節でさらに語っています。


「しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。」19節


 ダマスコで、神の啓示により見事に悪から立ち返らせてもらったパウロの信仰義認といえます。私たちも、イエス・キリストを心にお迎えし、生きるなら、律法を完全に行うことができるということではないでしょうか。すべては、イエス・キリストを信じて、受け入れることです。


 もうすぐ、グッドフライデーがきます。イエスさまが私たちの罪のために十字架にかけられた時です。この無償の愛を私たちがどういうふうに受け止めていき、この無償の愛の福音を多くの人々に伝えていくことが、私たちのイエスさまへの愛の応答ではないかということが示されます。


「十字架のかげに いずみわきて

 いかなるつみも きよめつくす

 おらせたまえ  このみを主よ

 十字架のかげに とこしえまで」 聖歌396



 ハレルヤ!主の御名を心から感謝し、喜び賛美します。

もうすぐ、グッドフライデー、イースターと続きます。私たちクリスチャンが毎年そのことに向き合わなければならない大切な時期です。イエス・キリストの十字架が私たちにとって何を意味しているのか、どうぞ私たち一人一人にお語りください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


 

 ガラテヤ書の背景には、ユダヤ人クリスチャンの中から、偽りの福音を教会に持ち込む者たちがいたという状況がありました。この偽りの福音に対してパウロは、とても激しく非難し反論します。


「私は驚いています。あなたがたが、キリストの恵みによって自分たちを召してくだっさった方から、このように急に離れて、他の福音に移っていくことに。」

「しかし、私たちであれ天の御使いであれ、もし私たちがあなたがたに宣べ伝えた福音に反することを、福音として宣べ伝えるなら、そのような者はのろわれるべきです。」(6、8)


 この「他の福音」とは、イエスを救い主として信じる信仰では足りず、やはり律法を守り行わなければ救われないという考え方です。

 ユダヤ人にとって、律法を守り行うという考えは幼き時より刷り込まれている考えですから、彼らにとっては真新しい考え方ではありませんでした。ですから「急に離れて」行ってしまったのです。あるいは古い教えに戻ってしまったのです。


 今を生きる異邦人の私たちにはユダヤ教の背景はありません。しかし、律法によって救われるという「律法主義」の構造は、今の社会にも確実にあります。

 救いも、そこから始まる信仰生活も、やがての復活も、すべては恵みにより信仰によって与えられたものです。しかしそこに、信仰だけでは足りない、やはり正しい行いがなければ救われないという考え方が入り込んできます。


 このガラテヤ書を通して、現代の律法主義から自由にされて、恵みと信仰によって歩む信仰生活が確立されることを願います。

 


天の父なる神さま

 イエスの十字架の救い、その十字架を否定するかのような、そでは足りないというような偽りの教えから私たちを守ってください。律法主義的な価値観、考え方から私たちを自由にしてください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

文:関真士


 
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