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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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『わたしの救いを見せる』


 この詩篇91篇の中には、主イエスの荒野の誘惑、マタイ4章6節で使われている聖句があります。マタイは「こう言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げなさい。『神はあなたのために御使に命じられる。彼らはその両手にあなたをのせ、あなたの足が石にあたらないようにする』と書いてあるから。」


 これは、この詩篇91篇11〜12節を引用したのです。サタンの誘惑は巧妙で、聖書のみことばをフルに使って、私たちの欲しいなぁと心の中で潜んでいる感情をふるい起こします。サタンの聖書知識は、今のAI、人工頭脳よりも優秀なのかもしれません。しかし、サタンには絶対無いものがあるのです。それは私たちに対する愛は、絶対にありません。あたかもあるように見せかけても、行くつく先は、神との離別、反逆の道、破滅の道を、それを薔薇色の道のように見せかけるのです。


 もう1箇所、この91篇15節には、「彼がわたしを呼び求めれば わたしは彼に答える。わたしは苦しみのときのい彼とともにいて 彼を救い 彼に誉れを与える」。

 主イエスが十字架に上げられた時に、群衆がイエスに向かって、神の子ならば神に助け出してもらえと嘲笑したことを思い出します。しかし、十字架にかかったのも、私たちを救い出すためでした、神の奥義として、救いのための十字架であったことがわからなかったのです。父なる神がすべての人間を救おうとされる方法は、まさに神の愛による救いの技であったのです。


祈り

 十字架が私たちの救いのための、神の愛と理解できたことに感謝します。それまでの自分は、ユダヤの群衆のごとく、神の子であったならば、なぜ十字架刑にかかるのかと、疑問に思っていた者でしたが、主の救いを見ることができたことに感謝します。アーメン

文: 森 宗孝


 

「私たちの齢は七十年。

 健やかであっても八十年。

 そのほとんどは 労苦とわざわいです。

 瞬く間に時は過ぎ 私たちは飛び去ります。」10節 


 時を止めることは誰もできません。その時は誰もが年を重ねて老いていくことです。そして老いていくと同時に自分の限界を否応なしに受け入れなければなりません。神は、無限の存在であられますが、私たちは有限の存在です。いつかは死ななければなりません。ある牧師は語っていました。「死は、人間側から見れば悲しみを意味するものですが、神の側から見れば、歓迎を意味します。死は父なる神の家へ帰ることを意味しています。」私たちクリスチャンにとって死の恐怖から遠ざけてくれる励ましのことばではないでしょうか。


 ある分かち合いの時に、「あなたは死への恐怖がありますか?」という問いかけに一人の信仰の先輩が、「私は、全くありません。なぜなら、死は永遠の命へとつながる希望があります。」と言われたことが印象的でした。その方が語ったことが、今日の詩篇の冒頭で述べられていることと重なりました。つまり、この方は、神を住まいとして日々の生活の中で神とのかかわりをもって生きておられるのだろうということです。


「主よ 代々にわたって あなたは私たちの住まいです。」1節 



 天の父なる神さま。私たちに永遠の命を与えてくださって感謝します。いつかおとずれる死を恐れずに、あなたは私たちの住まいであるということを覚え、日々あなたとのかかわりをもって生きていけますように導いてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


 

「私は 主の恵みを とこしえに歌います。あなたの真実を代々限りなく私の口で知らせます。」 (1)


 詩篇89篇は、神の恵みと真実を高らかに賛美する喜びの言葉から始まります。しかし途中から状況が大きく変わっていきます。かつて栄えたダビデ王朝が今は打ち倒され、人々に侮られ、王の冠が地に落ちたような現実を目の当たりにしているのです(39〜45)。


 神さまはかつて、ダビデとの契約を通して「その王位はとこしえに堅く立つ」と約束されました。神さまがダビデに与えた約束が、まるで取り消されたかのように見える状況に、エズラフ人エタンは、神さまに向かって率直に問いかけ、嘆きの叫びをあげるのです。


「いつまでですか。主よ。あなたがどこまでも身を隠され あなたの憤りが火のように燃えるのは。」(46)


 しかしこのような状況でも、エタンは、詩篇の最後で神を賛美する言葉で締めくくるのです。


「主は とこしえにほむべきかな。アーメン、アーメン。」(52)


 私は、物事がうまくいっていないとき、「神さまの約束はどこにあるのか」と感じることがあります。祈っても状況が変わらず、願っても応えられないように思えるとき、「本当に神さまは共にいてくださるのだろうか」と心が揺れることもあります。けれど、そんなときにこそ、エタンのように、問いや嘆きが心の中にあっても、「主は とこしえにほむべきかな」と言い切る信仰を選びたいものです。


 神さまの約束が見えないときでも、それが破棄されたわけではなく、むしろ隠されたご計画の中で働かれてるということだと思います。 神さまの応答は、私たちの時間軸とは違うリズムで、私が期待するタイミングではなく、神さまの最善な時なのです。 私は、後から振り返ったときに、「やはり神さまは祈りに応えてくださっていた」とわかる日を楽しみにしたいと思います。



愛する天のお父さま 

 たとえあなたの約束が見えなくても、私はあなたの真実を信じます。今、目に見える現実がどれほど厳しくても、あなたの恵みはとこしえにあります。不安ではなく、信仰を選び、迷いではなく、信頼をもって歩めますように。

 イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン


 
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