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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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「復讐の神 主よ

 復讐の神よ 光を放ってください。」1節


 いきなり冒頭で「復讐の神 主よ」という呼びかけに驚かされます。私たちの知っている主なる神様は、愛の神、義なる神、慈しみ深い神、等々です。と同時に、主なる神は人の不義を決してみすごされないお方でもあります。


 私たちも自分に降りかかった他者からの弾圧、又は、戦争によって多くの犠牲者になった人達のために、「復讐の神よ 光を放ってください。」「高ぶる者に報復してください。」と叫びたくなります。主なる神は、主を恐れずに高ぶる者たちには必ず報復します。


 しかし、もし私たちが自分に敵対する者を悪と決めつけ、自分たちの側に立つ「復讐の神」が私たちに味方して勝利を与えると考えるなら、それは憎しみと戦争という恐怖の中に私たちを巻き込んでしまうという恐ろしい結果になります。私たちは自分のために神の復讐を考えてはいけないということです。

 私たちができることは、主によって主のみおしえを教えられる人になっていくことではないでしょうか。そうすれば、13節で語っている平安が与えられると言うことです。

 

「わざわいの日に

 あなたはその人に平安を与えられます。」13節(一部抜粋)


 天の父よ、私たちが悪に負けずに、善をもって悪に打ち勝つことができますように義なる道へと導いてください。あなたの愛は無限で、どのような人にでも与えてくださるということを覚えて、他者との交わりを実のなるようなものにしてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。


 

 詩人は、大自然の圧倒的な力を描写しながら、それにまさる神の力を讃えています。


「あなたの証しは まことに確かです。聖なることが あなたの家にはふさわしいのです。主よ いつまでも。」(5)


 この一節が心にとまります。「聖なることが あなたの家にふさわしい」 これは、今の私たちにとっては「キリストの教会には聖なることがふさわしい」ということになります。

 教会は、この世俗社会の中にあります。しかし教会は、この世にあって、この世のものではありません。教会はこの世から聖別されているのです。

 だから、教会には聖なることが相応しいのです。この世のすべての人の集まりとは異なる、聖なることがあるのです。


 その聖なることとは? 教会にしかないこととは?

 イエスの御名による祈り、主への賛美、御言葉の解き明かし、聖餐式、なによりも聖霊なる神の臨在、臨在からもたらされる平安…。これらの聖なることは、キリストの教会にふさわしいのです。


 私たちは、教会の聖性を保たなければなりません。教会が聖なる教会であるからこそ、宣教に力が与えられます。教会が他のこの世の集団と同じようであっては、宣教の意味付けができません。

 

 主の偉大な力は、聖なる教会にこそ現わされるのです。

 

 天の父なる神さま

 あなたの教会は、聖なる神の家です。あなたが臨在される神の家です。この神の家に集える一人であることを感謝いたします。

 どうかこの世にあって、私たちが教会の聖性を保持し、この世にあって地の塩、世の光として歩むことができますように、聖霊が教会を励ましてください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

文:関真士


 

『年老いてもなお、実のる』


 主の家に植えられ 私たちの神の大庭で花を咲かせます。と13節にはありますが、なんだか、そのイメージが湧いて来る詩篇です。 そして14節「彼らは年老いてもなお 実を実らせ 青々と生い茂ります」とは嬉しいことばですね。年老いて、どちらかと言うと枯れるのが普通ですね。確かに頭の中は、バスケットを楽しんでいた、若い頃の昔と同じで変わったようには思わないのですが、孫娘たちと一緒に練習でもすると、身体が思ったように動かない自分がいます。身体がポンコツになってくるのですね。 そのような中に、クリスチャンとなって主を愛する者は、年老いてもなお、実のると約束されることには、夢が広がります。


 ハワイに移り住んだ4年前には、知り合いも少なくて、妻と共にこれからどうなることやらと思ったりしましたが、色々な機会に、神の家族として多くの友人ができたことに感謝しております。そしてそのような中には、何人もの人生の先輩もおられるのですが、みなさんが枯れるどころか、ご主人に先立たれて、一人暮らしをされていても、笑顔と優しさで包まれていることが印象的です。主の家に植えられているのですね。

 

 しかしながら、未だ主を知らない方で、英語もできずに、頼れる子供もおられずに一人暮らしで、不安の中で暮らして、笑顔の無い方もおられるのも事実です。朝に、夜ごとに、主に感謝し花のように咲いている人生には、喜びが絶えません。

繰り返しましますが、14節「彼らは年老いてもなお 実を実らせ青々と生い茂ります」なんとうれしい主のみわざでしょう。


祈り

 どうか、私たちの人生も、主の庭に植えられ、大庭で花咲く者とされますように、未だ主イエスを知る喜びを知らない方々に、主を示す機会が与えられ、喜びを共にすることができますように、導き下さい。 アーメン 

文: 森 宗孝


 
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