- hccnichigo
- 8月19日
『仲介者モーセ』
この詩篇には、いかにイスラエルの民が主のみわざをすぐに忘れてしまい、主のさとしを待ち望まなかったの数々の実例が列挙されている。そしてその民を救うために、神の怒りをなだめる仲介者が立てられた。あまり馴染みのない名前、仲介者と立てられた「ピネハス」と30節にあります。「そのとき ピネハスが立ち 仲立ちをしたので 主の罰は終わった。」 調べてみると民数記25節に、祭司アロンの子エルアザルの子ビネハスが、イスラエルの民の中でモアブの娘たちと淫らなことをし、彼女たちの神々を拝んだ、同じようにメディアン人の女もイスラエルの男に近づいた時に、このアロンの家系のピネハスが槍をとって、そのイスラエルの男と女二人を突き殺した、そうして主の罰で合計2万4千人のイスラエルの男が死んだとありました。 そのために、主はピネハスとその後の彼の子孫(レビ族)にとって永遠にわたる祭司食の平和の契約を与えたとありました。 このようにして、レビ族が祭司と主によって任命されたのには、血生臭い出来事があり、主の怒りを仲介したピネハスの存在があったのですね。
もう一人、主の怒り、彼らを根絶やしにする、と言われたのをなだめて、イスラエルの民を救った仲介者、モーセのことも23節に出てきます。ですから 3節「幸いなことよ さばきを守る人々 いかなるときにも正義を行う人は」と表されています。主の愛ばかりを強調していては、溺愛となり、自分勝手になってしまいます。 そして主のみわざ、奇跡、恵みばかりに目をとられ過ぎますと、迷信となってしまいます。しかし、主の義は、いくら主張しようとも、この義は岩のように人の土台となって、すべてを支えてくれるのではないでしょうか。
しかし、このような仲介者であったモーセさえも、主を怒らせて、約束の地であるカナンの地に入ることは赦されなかったのです。32〜33節抜粋「メリバの水のほとりで主を怒らせた、彼らが主の御霊に逆らったとき、モーセは軽率なことを口にした」とあるのですが、民数記20章11〜13節抜粋に、モーセが杖で岩を2度打って水を出したことが、主を信頼せず、イスラエルの子らの見ている前でわたしが聖であることを現さなかった」岩を2度打ったこと、その時に軽率なことを言ったのでしょうか、なんと主の怒りに触れたのでした。あまりにも民が文句を言うので、モーセは、自分の不満をつのらせて、岩を2度叩いたのでしょう、しかしそれが神の怒りに触れるとは、神の聖は、完璧でなければ、とうてい達成することができないのです。
祈り
私たちは、主のみわざを忘れてしまうイスラエルの民のような存在です。恵みを受けている時は喜ぶのですが、試練を受けるとすぐに文句が先に出てしまいます。しかし、私たちには、完全な罪のない仲介者である、御子イエスがおられることに感謝致します。主イエスを信じることによって、主の義を私の義とすることができることに、心から感謝致します。アーメン
文:森 宗孝

