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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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『仲介者モーセ』

 

 この詩篇には、いかにイスラエルの民が主のみわざをすぐに忘れてしまい、主のさとしを待ち望まなかったの数々の実例が列挙されている。そしてその民を救うために、神の怒りをなだめる仲介者が立てられた。あまり馴染みのない名前、仲介者と立てられた「ピネハス」と30節にあります。「そのとき ピネハスが立ち 仲立ちをしたので 主の罰は終わった。」 調べてみると民数記25節に、祭司アロンの子エルアザルの子ビネハスが、イスラエルの民の中でモアブの娘たちと淫らなことをし、彼女たちの神々を拝んだ、同じようにメディアン人の女もイスラエルの男に近づいた時に、このアロンの家系のピネハスが槍をとって、そのイスラエルの男と女二人を突き殺した、そうして主の罰で合計2万4千人のイスラエルの男が死んだとありました。 そのために、主はピネハスとその後の彼の子孫(レビ族)にとって永遠にわたる祭司食の平和の契約を与えたとありました。 このようにして、レビ族が祭司と主によって任命されたのには、血生臭い出来事があり、主の怒りを仲介したピネハスの存在があったのですね。


 もう一人、主の怒り、彼らを根絶やしにする、と言われたのをなだめて、イスラエルの民を救った仲介者、モーセのことも23節に出てきます。ですから 3節「幸いなことよ さばきを守る人々 いかなるときにも正義を行う人は」と表されています。主の愛ばかりを強調していては、溺愛となり、自分勝手になってしまいます。 そして主のみわざ、奇跡、恵みばかりに目をとられ過ぎますと、迷信となってしまいます。しかし、主の義は、いくら主張しようとも、この義は岩のように人の土台となって、すべてを支えてくれるのではないでしょうか。


 しかし、このような仲介者であったモーセさえも、主を怒らせて、約束の地であるカナンの地に入ることは赦されなかったのです。32〜33節抜粋「メリバの水のほとりで主を怒らせた、彼らが主の御霊に逆らったとき、モーセは軽率なことを口にした」とあるのですが、民数記20章11〜13節抜粋に、モーセが杖で岩を2度打って水を出したことが、主を信頼せず、イスラエルの子らの見ている前でわたしが聖であることを現さなかった」岩を2度打ったこと、その時に軽率なことを言ったのでしょうか、なんと主の怒りに触れたのでした。あまりにも民が文句を言うので、モーセは、自分の不満をつのらせて、岩を2度叩いたのでしょう、しかしそれが神の怒りに触れるとは、神の聖は、完璧でなければ、とうてい達成することができないのです。


祈り

私たちは、主のみわざを忘れてしまうイスラエルの民のような存在です。恵みを受けている時は喜ぶのですが、試練を受けるとすぐに文句が先に出てしまいます。しかし、私たちには、完全な罪のない仲介者である、御子イエスがおられることに感謝致します。主イエスを信じることによって、主の義を私の義とすることができることに、心から感謝致します。アーメン

文:森 宗孝


 

『神の契約は永遠に』 

 

 この詩篇には、アブラハムからイスラエル民族が起こされ、この主に選ばれた民の歴史を通じて、アブラハムと主の契約、アブラハム契約は永遠の契約であること、主が必ず救いのことばをもって、苦難を通され、荒野での試練を受けるが、それは彼らが主のおきてを守り、そのみおしえを保つためである。


 私たちも、このイスラエルの民と同様に、この世、荒野の中での生活では色々な試練を受けるのです。それは、私たちの信仰を強めるための試練であると聖書は語っています。どのようにしてアブラハムとの契約が、私たちと関係しているのか。


 ガラテヤ書3章6〜7節「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」とあるとおりです。ですから、信仰によって生きる人々こそアブラハムの子である、と知りなさい。さらに9節に「ですから、信仰によって生きる人々が、信仰の人アブラハムとともに祝福を受けるのです」

 ここに、旧約聖書がイスラエル民族の歴史を語っている理由があります。イスラエル民族は、偶像礼拝をしたり、主に不平不満をぶつけたり、間違った道も通りますが、悔い改めによって、アブラハム契約の恩恵を受けているように、私たちも、罪からの悔い改めと信仰によって、アブラハムとともに、その祝福を受けるというのが、聖書の恵みであることに感謝します。


 現在のイスラエルとガザの戦いを見ますと、とても聖なる、選ばれた民族の姿は見えません。いまだに試練を通されているイスラエル民族がいます。彼らが心から主イエスを救い主、メシアとして呼び求める時に、もう一度主イエスが来られると約束されています。どうかイスラエルの民が、すべての国の祭司となる日、平和の君のもとに主イエスを礼拝する時が来て、本当の平安、シャロームがこの地に訪れますように、選ばれた民が喜びをもって主イエスを迎えることができますように


 主イエスをみごもった母マリアは、「私たちの父祖たちに語られたとおり、アブラハムとその子孫に対するあわれみをいつまでも忘れずに」とマリア賛歌(マグニフィカート)で歌いました。アブラハム契約は、神からの無条件契約で、信じる者には、主の恵みが必ず与えられるのです。


祈り

私たちも、ちょうどイスラエルの民が試練の中を通されたように、この世での苦しみに会いますが、それが信仰を深めるための主の導きであることを信じて歩む力があたえられますように、主を常に心から賛美することができますように アーメン

文:森 宗孝



 

「主よ あなたのみわざはなんと多いことでしょう。

 あなたは知恵をもってそれらをみな造られました。

 地は あなたのもので満ちています。」24節

 

 詩篇104篇は、自然の営みが美しく描かれています。心がいやされます。でも、この自然を造られたのは、主なる神であることを覚えておくことがとても大切だと思わされます。

 主のみわざがいかに多くて、偉大であるかを私たちは、私たちのまわりで知らされます。我が家の小さな庭の垣根の向こうには大きなシャワーの木が立っています。今年も見事な花を咲かせてくれました。いや、主によって咲かせていただいてもらったのです。肌にやさしい風が吹いてくるとシャワーの木からまるでシャワーの水のしずくのように花びらが舞い降りてきます。そして、夕方になるとたくさんの鳥たちが寝床をもとめて帰ってきます。鳥たちのさえずる声は、今日一日に起こった反省会をしているかのように聞こえてなんとも言えない平安があたえられます。これらのこともすべて主の知恵でもって造られたものです。

 主のなさることは決して何一つ無駄なことはありません。すべてに、それぞれの目的があります。私たちもこの世に生をあたえられたのは、愛されるために、そして愛するためです。


 天の父なる神さま。あなたの御名を心からほめたたえます。あなたは、この自然界で小さなものから大きなものまで目的があって創造された方です。あなたの大いなるみわざが働いておられることを覚えて、日々感謝して歩んでいくことができますようにお委ねします。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


 
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