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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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 詩篇109篇は、35篇、69篇などと一緒に「呪いの詩篇」と呼ばれる詩篇だそうです。私たちが最高の存在であられる主の前で祈るとき、神への不平不満、隣びとに対する憎しみや怒りをぶちまけるような時、それでいいんだろうかと思ったりします。しかしこの詩篇を読むと、「いや、それでいいんだよ。」と主が語っていてくださるみたいです。


 この詩篇のはじめに、詩人は自分が「彼ら」に示した善や愛が、悪と憎しみとなって返ってきている状況の中で、まさに恩を仇で返されるような事態を嘆き神に訴えています。


 そして6~20節はそれに対して仕返しをするような呪いのリストです。即ち、だから主よ彼らに裁きと刑罰を与えてくださいと、毒づいた口で訴えます。私自身まだ不信仰でクリスチャンでもない頃でも、自分を傷つけようとするもの、自分に怒りを起こさせるような相手に対して、「神様、あいつにバチを与えてください。」と祈ったものですが、それと似ています。


 最終的に詩人が語っているのは、私たちの隣人に、呪われ、つらい状況に追いやられ、傷つけられ仕返しのできないような状況に追いやられるような時があるかもしれない。しかし、そのような時は、私たちの傷ついた思いを、素直に神に祈って知ってもらうとよい。感じるままをそのまま正直な気持ちを、必ずしも清い祈りではないかもしれないけれど、飾ることなく自分のことばで祈るとき、私たちの無限に寛大な愛に満ちた神は、それを忍耐強く聞いて、理解して、苦悩を取り去って、私たちの心に平安を与え祝福してくださるのです。

「彼らは呪いましょう。しかし、あなたは祝福してくださいます。」(28節)。


 自分の気持ちをごまかし続けても、解決はありません。善人ぶってても、その裏表のギャップの厳しさに苦悩するだけです。だから、どんな時でもどんなことでも正直に神に打ち明けて祈ることを勧めているのだと思います。「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(へブル4:16)


 憐み深い天のお父さま、あなたはなんと寛大で忍耐強いお方でしょう。私たちが悩む時、その思いを、正直に飾ることのない自分の言葉であなたの御前に差し出せば、それを喜んで受け入れてくださり、私たちに心の癒しを与えてくださることをこの詩篇から学びます。私たちにもそのような祈りをも許していてくださっていることを感謝します。


God Is Good All the Time. アーメン


 

「人による救いはむなしいものです。」12節(抜粋)

「神にあって私たちは力ある働きをします。

 神こそが 私たちの敵を踏みつけてくださいます。」13節


「人による救い」はほとんどが見返りを期待させられるものではないでしょうか。又、人に救われた者たちも何かをしなければならない。それがこの世でいきる私たちのありかたでしょう。人からの救いは限度があります。これ以上のことは期待できません。


 しかし、「神からの救い」はどうでしょうか。神は、見返りを期待されるでしょうか、又、救いには限度があるでしょうか。これらのことはすべてNOです。私たちが思っているよりはるかに、神の救いは、無限なものであり、また、決して神は私たちに見返りを期待されるお方ではありません。


 以前、ある人がとても困っていた時に助けられた話しがあまりにもリアルなもので印象深かったのでここで共用させたいと思います。


 この方は母子家庭で、子供が泊りがけの遠足に行くお金がありませんでした。しかし、子供の初めての遠出の学生時代最後の思い出の遠足に行かせたいと思い、あるお方からお金を貸してもらいました。子供はとても大喜びで素晴らしい旅をしてきました。さて、そのお母さんは、貸してもらった方にお金を返済しましたが、それからはそのお母さんは助けてもらった方のカバン持ちをするようになりました。まるで、奴隷だと泣いていました。しかし、神さまを知ってからは、そのお母さんは、お返しは人の為にカバン持ちをするのではなくて、主の栄光をあらわせるような働きを他者にすることだということに導かれました。今も遠い所で、かくれた主のための働きをされておられることを知りとても嬉しく思いました。


 神からの救いは、私たちに力強い働きを与えてくださいます。そのためにも私たちはあきらめずに、主に求め続けて、たたき続けていくことだと思います。

「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。」マタイの福音書7:7


 愛する天の父よ。救いは常に天の父なる神からくることを学ばされます。人の救いに頼る前に、まず祈り聖霊さまの導きに従っていくことができますように導いてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


 

「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」(1)


 この詩篇には、同じフレーズが繰り返されている。

「この苦しみのとき、彼らが主に向かって叫ぶと 主は彼らを苦悩から救い出された。」(6、13、19、28)


「主に感謝せよ。その恵みのゆえに。」(8、15、21、31)


 荒野の苦しみ、苦悩と苦役の苦しみ、背きと咎の苦しみ、嵐の苦しみ。それらは民の罪に対する神の裁きでもあります。しかし、その裁きの苦しみの中で「主に向かって叫ぶと」とありますが、この叫びが「悔い改め」です。そして主は、その裁きから救ってくださるのです。


 神は、民の罪を見逃すお方ではありません。罪を罪として裁くのが真の神です。同時に、神はご自身のかたちに造られた民を愛しています。その愛は永遠に変りません。だから神は、罪人を救おうとされるのです。


 神の正義があり、人は罪に定められ、罪に対する神の裁きがくだり、人が悔い改めて主に立ち返り、神は人を罪と裁きから救ってくださるのです。

 これは聖書全体に啓示された「悔い改めて、福音を信じる」という救いの構造でもあります。言うまでもなく、詩篇(旧約聖書)には、明記されませんが、この救いの中心にはイエス・キリストの十字架があります。


 この素晴らしい詩篇を分析するのも野暮な感じもします。ただただ、主の恵みの豊かさを想いながら、この美しい詩篇を味わいたいものです。

 

 天の父なる神さま

 私たちの人生には、苦しみがあります。でもその苦しみの中で主を呼び求めることができる幸いを感謝します。そしてあなたは、いつも私たちをその苦しみから救い出してくださいます。

 今私たちは「主の数々の恵みを見極めよ」(43)と語られています。主の恵みの豊かさを知り、さらに主に感謝を捧げる者たちでありますように。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

文:関真士


 
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