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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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『義は永遠に堅く立つ』


 主を恐れるという恐れは、畏れるという漢字のほうが合っている、先日、関先生のメッセージで、赦すと許すの違い、Forgive と Permit の言葉の違いが示されましたが、この場合にも、恐怖の恐れと、畏怖する畏れは違うのではないかと思いました。奴隷が主人を恐れるような恐れではなく、主を畏れ、神の戒めであるみことばを守る者は、悪い知らせ、例えば敗北をも勝利と変えてくださり、心は堅固で自分の敵を平然と見るまでになる。そしてその家には繁栄と本当の富があって、義がうせることがない、それが主を畏れることがさいわいにつながってゆくとこの詩篇は私たちに伝えようとしています。


 もともと、この詩篇はヘブル語のアルファベットに基づいて、日本のいわば数え歌のように覚えやすさが特徴です。 昔は紙が非常に高価なものでしたから、家庭で聖書を持つことはできませんでした。ですから、大人も子供達も暗記できるように、聖書の色々な箇所にこのような、アルファベットで記憶しやすいようにできているのです。言わば語呂合わせなのですが、そこに真実が表されているのです。


 この詩篇の始まりは、幸いなこと(アシュレー)ではじまっていますが、これは詩篇の1篇の始まりと同じで、詩篇全体に流れる、幸いなこと、人とはどのような人か、神の義を求める人だと描かれているのではないでしょうか。このアシュレーという言葉は、真っ直ぐに歩むという言葉から出てきて、幸いな人は、神の義、神の道をまっすく歩む人だということを意味しているのです。


 その神の義のなかには、9節「彼は貧しい人々に惜しみなく分け与えた。彼の義は永遠に堅く立ち」とありますので、貧しい人々に惜しみなく分け与える。簡単に見えて実行することが難しいですね。しかし、自分の財産を自分が努力して稼いだ物として見てしまいますと、分け与えることが難しくなります、自分の努力で集めたお金ですから。しかし、それを初めっから自分の物ではない、預かったお金と思い返すことができましたら、気持ちの上では分け与えることが難しくなくなります、なにしろ初めから自分のお金ではないのですから。しかし言うのは易し、行うのは格段の覚悟が必要なことです。


祈り

主よ、どうか自分も幸いな者として、正しき道を歩むことができますように、情け深く、貧しい人々に惜しみなく分け与えることが難しいのです。どうか正しい道に一歩踏み出すことができますように、主の手を伸ばして、私を助けて下さい。 アーメン  

文:森 宗孝


 

「知恵の初め それは主を恐れること。

 これを行う人はみな賢明さをえる。

 主の誉は永遠に立つ。」10節


 10節の御言葉に目が留まりました。そして、その御言葉は箴言1章の7節にも述べられています。


「主を恐れることは知識の初め。

 愚か者は知恵と訓戒を蔑む。」箴言1:7


 「主を恐れる」とは、主を信じ、主に信頼し、主を敬い、主をかしこみ、畏れることだと言われています。おそれおおい方をあなどってはいけないということです。又、私たちの感謝は、常に「主を恐れる」ということを土台にした感謝であり、「主にすべての栄光を帰す」ところの感謝です。そのような行いをする人は賢明な者になることができるのです。私たちクリスチャンの訓戒のなかの一つとしていえることだと思います。


 私たちは、主の偉大な働きに感謝し、真実である主ご自身に感謝をささげ、主を恐れ、主に栄光を帰して、心から感謝をささげていくことであります。


 天の父なる神さま。あなたが私たちにしてくださった偉大なみわざに感謝し、主を恐れることによって賢明さをえることができますように導いてください。そして、いつでも、何をするにしても、あなたの栄光を帰す働き人として用いてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


 

『右の座』


1節 主は、私の主に言われた。「あなたは、私の右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台にするまで。」


 日本語でしかも親しい間がらで会話する時、「あなたは」「私は」といった主語を抜かして話すことが多い。そのため日本語を学ぶ外国人は「え、誰が何したの?」と大きな混乱をまねくことがしばしばある。逆に英語を学ぶ時、言葉の順序に戸惑ったことはないだろうか?


 110篇1節で「主は、私の主に言われた」の文。元のヘブル語のこの言葉には動詞がない、というので不思議に思い解説を探った。


 原語のヘブル語では「ネウム・アドナイ・ラドーニー」で、この通りの順に日本語を並べると「御子・御父・御告げ」で、直訳すると「私の主に対する主の御告げ」となり、動詞がないという。もっとわかりやすくすると「父なる神様の御子イエス・キリストについてのお告げ」ということになる。ヘブル語も非常に興味深い。


 詩篇が書かれた頃、まだイエス様はお生まれでない。

あなたは私の右の座に着いていなさい」右の座といえば「使徒信条」にあるように、イエス・キリストである。ここでのあなたはイエスであり、「の右の座」のは神様である。

 神様がイエスの敵を足台にするまで、と読める。イエスが救世主として再臨されるまでの意味となる。神様がイエスというキリスト(救世主)をこの世に拝出されるという預言がここに伺える。この章はイエス様がこの世にお生まれになる預言が書かれている。


 まさに作者はこの言葉を約3千年前に神様から預かっていたのだ、と思うと神様の壮大な計画が垣間見られ感動する。


 一般社会でも「社長の右腕」とか言われるように右側は特に権威権力のある位置である。イエス様は今でも父なる神様の右の座で、私たちのとりなしをしておられる。


天の父なる神様、

 御子イエスを犠牲にして私たちの罪を贖い救って下さったこと、そしてあなたの右の座でイエス様がとりなしをして下さっていることに感謝します。御心が天になるようにこの地にもなりますように。イエス様の再臨を待ち望みます。イエス様の御名により祈ります。アーメン

文:マッカーター政子


P.S.

 同じ日本語での、特に親しい間柄で会話する時、「言わなくてもわかるでしょ」的な曖昧な部分が多い。「気をむ”KY”」もある。これらは日本語特有なのだろうか?英語も日本語も文章では「行間を読む」という所が共通点であろうか。英語しか話さない亡くなった主人との会話で、私は頭にきた時は黙ることにしていた。態度で私が怒っているのは、わかったようだ。3日間(3日が限界)の沈黙後「話してくれないとなぜ怒ってるのか分からない。」と結婚したての頃よく言われた。そうですね、英語だと話さないとわからないのだ。会社でも考えを述べないと、意見(自分)のない人と見做される。一般的に英語では繊細なKYがわからない。話してもわからない時もあるし、人間関係の難しさを未だに学ばされています。感謝です。



 
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