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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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 詩篇第115篇は過ぎ越しの祭りで歌われたハレルヤ詩篇の一つと言われています。イスラエルの民を救出された神が偶像の神々とどう違うかを示しています。


 2節から8節は偶像の神々を信じることのむなしさが書かれています。人の手で造られた神々は、たとえ銀や金でできても、語れず、見えず、聞こえず、嗅げず、さわれず、歩けず、声をたてることができない、等々が何一つできません。人の手で造られたものは、必ずいつかは滅びるものだからです。


「私たちの神は天におられ その望むところをことごとくおこなわれる。」3節


 私たちの真の主なる神は目には見えませんけれど、決して永遠に滅びることがありません。確かに私たちは目に見えるものに心をひかれます。トマスもそうでした。イエス様が復活された時に弟子たちの前に現れた時にトマスはそこにいなかったので、イエス様の手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じないと言いましたそしたら、イエス様はトマスにそのようにさせられたのである。

そして、イエス様はトマスに言われた


「信じない者ではなく、信じる者になりなりなさい。」ヨハネの福音書20:27(抜粋)


「イエスは彼に言われた。あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」ヨハネの福音書20:29


 人の造った偶像礼拝に心を動かされる時に覚えておきたいことは、いつかは朽ちて滅びてしまうことで、永遠なものではないということではないでしょうか。


 天の父なる神様。私たちが目に見える偶像に心がうばわれませんように、目にみえない真の神を信じ、ほめたたえていくことができますように導いてください。あなたの御名に栄光をあらわすことができますように用いてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン 


 

 この短い詩篇の中で、詩人はイスラエルのこれまでの歩みを振り返っています。特に、出エジプト、紅海渡渉、ヨルダン川渡渉、荒野の奇跡など、そこに現わされた神の力ある業を想起し、主を褒めたたえているのです。


 詩篇103篇2節「主が良くしてくださったことを、何一つ忘れるな」とあります。イスラエルの民は、詩篇を繰り返し歌うことで、主の良くしてくださったことを忘れないように語り継いで来たのです。


 私たちが主を賛美するとき、その賛美の歌詞は数えきれないほどありますが、その賛美を通して、私たちは主の御業を思い起こすのです。


 同時に、詩篇はあくまでも「詩」なのです。山々や丘が跳ねたりするような、実際には起こり得ないことを詩として表現しているのです。「詩」とは、通常の表現では表現し切れない時に使う表現方法です。山々や丘が跳ねるというのは、神の御業に対する喜びを表現しているのです。


「神は 岩を水の潤う沢に変えられた。硬い岩を 水の溢れる泉に」(8)この詩は、イスラエルの民が40年間荒野を旅したとき、神が岩から水を溢れさせてくださったという御業のことを歌っています。

 同時に今の私たちにとっては、私の岩のような硬い心もヨハネ7章38節に記されているような「生ける水の川」が溢れるような潤う沢に変えられるという信仰に導く歌となります。


 私たちは詩篇を味わないながら、主を賛美するごとに、主の良くしてくださったことを思い起こし、さらに賛美を捧げる者でありたいと思います。それが生ける水の川が溢れ流れるということなのです。


 天の父なる神さま

 私たちは、あなたを賛美するたびに、主の良くしてくださったことを思い起こします。そしてさらにあなたを賛美します。

 私たちの岩のように硬い心を砕いてください。主の御心を感謝して受け取り、喜んで主に従う心を与えてください。そして生ける水の川が溢れ流れる者たちとしてください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

文:関真士


 

『主をほめたたえよ』


 この113篇と続く114篇は、ユダヤの国で、過越の祭りの食事の時に歌われた賛美と言われています。きっと主イエスも、最後の晩餐と言われている過越の食事の時にも、弟子達と一緒に歌われたことでしょう。そもそも過越の祭りは、奴隷であったユダヤの民が、救われたことを祝う祭りですから、この詩篇のように、貧しい人を救い出す神を讃える歌が選ばれたのではないでしょうか。


 マタイ26章30節「そして、彼らは賛美の歌を歌ってからオリーブ山へ出かけた。」とあります。その時にどの賛美をしたのかは書かれていませんが、詩篇113篇から118篇は、ハレルヤ賛美と呼ばれていて、この中のどれかから歌われたと言われています。


 私たちの教会でも、賛美を重視して、確かに自分も賛美の時、心から喜びが湧き上がってくる経験をしている人は多いと思います。私たちが天に挙げられる時は、お金も、何もかも地上の物は持ってゆくことはできませんが、この賛美だけは天に持ってゆくことができるのではないでしょうか。

 

 詩篇は多くの場合、嘆きからはじまる詩ですが、ここでは初めからハレルヤ、主をほめたたえよと何度も繰り返されています、あたかも天へ昇る前の喜びを伝えようとしているように感じるのです。そして、すべての国々の上におられる主が、人の姿となって、身を低くされて、私たちと同じように下界に降りて来られて、私たちに御子イエスを送ってくださいました。これこそ、本当にハレルーヤです。


 ところで、BIBLEという字を、こう書き換えた説明を思い出します。

(B)Basic 基本的な (I) Instruction 説明書 (B)before 前に (L)Leaving 去ってゆく(E)Earth 地球を


 私たちが罪の奴隷であることを自覚せずに、闇の中で生きている姿を見て、憐れみの心、慈愛をもって、世の光である御子が送られましたが、同時に私たちに神の義とは、どういうことかを身をもって示された、それは義を知らない私たちに義という神のみことばを示すことによって、やがてその義で、すべての人が裁かれることをも示されました。最後通告といっても良いかもしれません。


祈り

どうか、主イエスのもとに多くの者が集まって、やがて下される最後の審判から救われることに感謝します。どうかエジプトから救われたように、一人でも多くの者が救いを受けられますように、私たちも、みことばを伝え続けますように力をお与え下さい。 ハレルーヤ アーメン 

文:森 宗孝


 
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