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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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「あなたに向かって 私は目を上げます。天の御座に着いておられる方よ。まことに しもべたちの目が主人の手に向けられ 仕える女の目が女主人の手に向けられるように 私たちの目は私たちの神 主に向けられています。主が私たちをあわれんでくださるまで。

あわれんでください 主よ あわれんでください。 私たちは蔑みでいっぱいです。私たちのたましいは 安逸をむさぼる者たちの嘲りと 高ぶる者たちの蔑みでいっぱいです。」


 捕囚によって離散の民となったイスラエルでしたが、その心はいつもエルサレムにありました。しかし現実は「安逸をむさぼる者たち」の中での生活です。神を信頼する者の姿は、自分の富や繁栄に頼って生きている人たちの中では滑稽であり、愚かでしかありません。そのような状況にあって、詩人は「私たちの目は私たちの神 主に向けられています」と自身の信仰に確信を置きます。しかし、高ぶる者たちの蔑みや屈辱に耐えられず、「あわれんでください 主よ あわれんでください」とたましいの救いを求めます。


 嘲笑や苦難の中で平安を得る唯一の方法は、目の前にある状況に目を向けるのではなく、天におられる主イエスを見上げることです。辛い時こそ、大変な時こそ、主イエスを見上げましょう。神に信頼を置く者には慰めが与えられるからです。 

文:アイゾン直子


祈り:愛する天のお父さま。あなたは救い主であり、なぐさめ主です。そのようなお方に愛されてること、大切に思っていただいていることを思うと、勇気づけられます。どうか、日々経験する霊的戦いにおいて、あなたを見上げる信仰によって勝利を得ることができますよう、お守りください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン


 

「エルサレムの平和のために祈れ。

『あなたを愛する人々が安らかであるように。』」6節


 詩篇122篇は、「都上りの歌」の第三番目の歌である。特に122篇で示されるのはやはり、6節の「エルサレムの平和のために祈れ。」の御言葉である。エルサレムといえば、神の都でありユダヤ人の生活の中心地であります。


 「エルサレムの平和のために祈れ!」の本を出版されたトム・ベスさんによりますと、エルサレムの平和のために祈るのは、ユダヤ人とアラブ人が一致し、聖霊と火の油注ぎを受けるよう祈ることでもあると語っています。今日のエルサレムの町全体のためでなく、エルサレム旧市街の城壁の中にいるユダヤ人とアラブ人の牧師や信者のために祈り、又、エルサレムを首都とする、イスラエル全土の人々のために祈ることでもあると言われています。


 ちなみに、エルとは「来る」「撃ち射出す」「横たえる」を意味しているそうで、また、サレムとは「平和を相続する」という意味であると言われています。このような立派な名前を持っているエルサレムの今日はどうでしょうか。メディアを通して伝わってくるニュースに心が痛むことが多々にあります。いつになったらエルサレムに平和がくるのでしょうかと思わされます。ルカの福音書19章41節のイエス様の感情的になられたことが思いだされました。


「エルサレムに近づいて、都をご覧になったイエスは、この都のために泣いて、いわれた。」19:41

「もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたらー。

 しかし今、それはおまえの目から隠されている。」19:42



 愛する天の父なる神様。私たちは、エルサレムに一日も早く平和がきて、イエス・キリストの再臨、千年王国が成就しますように祈ります。又、紛争によってユダヤ人とアラブ人の覆われた目が聖霊によって取り除かれていきますように祈ります。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


 

 多くの人がこの詩篇を愛唱してきました。


「私は山に向かって目を上げる。私の助けは どこから来るのか。」(1)


 この詩篇は「都上りの歌」と表題にあるように、巡礼の歌です。イスラエルの民は祭りを祝うために神の都エルサレムまで、何日も過酷な旅をして来るのです。

 行きの道は祭りに向かうわけですから足取りも軽いかもしれません。しかし祭りが終り、これから帰路に発つというとき、何とも心も足も重く感じてしまうような感覚があったと思います。

 彼らの目の前にある「山」とは、緑豊かな山ではなく、険しく渇いた荒野なのです。彼らは、これから荒野に向かって過酷な旅に出るのです。


 そんな中で、思わず「私の助けは どこから来るのか」と叫ぶのでしょう。それに対して、巡礼者を見送る祭司たちがコール&レスポンスのようにして応答するのです。

「私の助けは主から来る。天地を造られた方から」(2)


 私たちも人生の荒野を旅する旅人です。目の前には荒野という山が立ちはだかっていることもあります。思わず足がすくむよう、ため息が出るような、不安が襲ってくるような、そんな状況に置かれることもあります。

 しかし主は、そんな私たちに「あなたの助けは天地を造られた主から来る」と応えてくださるのです。

 荒野に向かうとき、私たちは一人ではなく、主がその旅路を共に進んでくださるのです。天地を造られた主が私たちを助けてくださるのです。


「主はあなたを 行くにも帰るにも 今よりとこしえまでも守られる。」(8)


 この主に信頼し、人生の旅路を歩んでいきたいと心から思います。


 天の父なる神さま

 私たちは、人生の荒野を旅する旅人です。しかし、この荒野の中にも主は共にいてくださり、共に歩んでくださることを感謝します。あなたの御手に支えられてこれから歩んでいきます。どうぞ天地を造られた主が、どんなときも私たちを助けて守ってください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

文:関真士


 
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