- hccnichigo
- 9月13日
「主よ わたしの心はおごらずわたしの目は高ぶりません。及びもつかない大きなことや奇しいことに 私は足を踏み入れません。」 (1)
「まことに私は 私のたましいを和らげ 静めました。乳離れした子が 母親とともにいるように 乳離れした子のように 私のたましいは私とともにあります。」(2)
「イスラエルよ 今よりとこしえまで 主を待ち望め。」(3)
詩篇131篇を開くと、たった三節の短い詩の中に、茶室の空気のような静けさと深みが広がっていました。それは、裏千家のお点前のひとときを思い出します。
茶室に入り、心を静め、一つひとつの所作を整える。そこでは技を誇るのではなく、ただ客人を思い、淡々と美味しいお茶を点てます。その所作はまさに「心はおごらず、高ぶらない」姿に似ています。
「乳離れした子が母親とともにいるように」という2節の姿は、お点前の心にも通じます。ただ茶の香りと湯の音に耳を澄ましながら、焦らず力まず茶筅を動かし、御霊を込めるようにお茶を点てる。その中で、自分のたましいもまた、神さまの懐で安らいでいることを思い出します。
最後の三節、「今よりとこしえまで主を待ち望め」。これは、客人に茶を差し出し、その人が一口含む瞬間を静かに待つ心に似ています。茶を通して相手が安らぎを受け取ってくれる時、その場が完成するように、信仰もまた、神さまの応答を静かに待ち望む中で実を結びます。
茶室での一碗のように、神さまの前でも、ただ静かにその懐に安らぐこと。そこに、何ものにも代えがたい平安があることに気づかせていただきました。感謝します。
愛する天のお父さま
御前でおごらず、高ぶらず、静まる者であらせてください。あなたの懐で安らぎ、あなたの時を待ち望む心を与えてください。 私の歩みが、あなたに献げる一碗の茶のように、喜びと平安をもたらすものとなりますように。イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン

