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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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 詩篇第146篇から最後の150篇までは、「ハレルヤ詩篇」と言われています。

3節と4節の聖句に目が留まりました。


「あなたがたは君主を頼みとしてはならない。 救いのない人間の子を。」


「霊が出て行くと 人は自分の土に帰り その日のうちに 彼の計画は滅び失せる。」


 いくら民主主義の世といえども、権力者には逆らえません。しかし、作者は、権力者が死ぬとその人の計画は滅びてしまうと言っています。私たちが頼ることのできるお方は天地を創造された全能の神、そして、その神の計画は決して滅び失せることがありません。


 主は、とこしえまでも真実を守り、虐げられる者、飢えている者、捕らわれ人、目の見えない者、かがんでいる者、寄留者、みなしごとやもめ達を助けられるお方なのです。全能の神は決して約束を破らず真実を守られるお方であります。しかし、悪しき者の道は主によって曲げられます。


 私たちが誇ることのできるお方、そして、ほめたたえられるべきお方は、神のみだけです。苦難の時に、神に叫び求めた時に、祈りに答えられた時はことばにならないような時がありました。ただ、ただ、この方をほめたたえずにはおれませんでした。涙をながして、「主よあなたをほめたたえます。」と何度も、何度も口ずさむだけでした。



 ご自愛深き天の父なる神様。この詩篇の作者のように、私たちも人ではなく主なる神に望みをおくことができますように助けてください。あなただけがほめたたえられるべきお方であり、あなただけを頼りとすることができますように導いてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


 

『神様のレール』


 二~三年前だが、東京立川にある幼稚園では、この章の17節から19節を暗唱する聖句として取り入れたそうだ。神のご支配に感謝する、という精髄がこの聖句に込められているからだそうだ。幼少時からバイブルに触れあっている子供たちは幸せである、と本当に思う。


17節 主はご自分のすべての道において正しくそのすべてのみわざにおいて恵み深い方。

18節 主を呼び求める者すべてまことをもって主を呼び求める者すべてに主は近くあられます。

19節 また 主を恐れる者の願いをかなえ彼らの叫びを聞いて救われます。


 この145篇は、口伝立法の中でも覚えやすいようにへブル語のアルファベット順にかかれているという。全部で21節ある。そういえば、大昔のアルファベットは26もなかった。なぜ5つも抜けてたの、との質問を受けたことがあったが、それはその時代に必要がなかったからであろう、としか答えられない。


 日本でも、毎年暮れになると「今年の話題の新しい言葉」や「新しく辞書に加わった言葉」などが報道される。


 時代に合わせて肉の世は変化していく。変わらないのはわれらの父、神様だけである。神様の敷いてくれたレールに乗っていれば安心で恵みと感謝しかない。神の最も重要な私たちへの戒めは:


* 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。(マタイ22:37)

* 自分を愛するように隣人を愛しなさい。(マタイ29:39)


 これからを背負う若者にも、神様がいつも傍にいることを知ってほしい。神様を信じていれば、自己是正意識は高まると思うのだ。肉親が敷いてくれたレールからは、かなり外れて生きてきた私であるが、神様のレールには絶対乗りたいのです。みんな一緒にこの確かで真実なレールに乗ってほしいのです。みなが救われ、神様を愛し崇め畏れますように。イエス様のお名前により祈ります。アーメン

文:マッカーター政子


PS:これは2023年に13歳から29歳までの男女千人に聞いた自己意識調査の結果である。日本は他国に比べ、低いのが残念である。

聞いた質問内容:今の自分が好きですか?

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「主よ。人とは何者なのでしょう。あなたがこれを知っておられるとは。人の子とは何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。人はただ息に似て、その日々は過ぎ去る影のようです。」(144:3,4)


 私を含めて、人間とは愚かで、弱くて、罪深い存在で、またその人生は、いかにはかないものなのかなと思いがちです。特に「人は息に似て、その日々は過ぎ去る影のよう」を読む時、仏教的な言葉「泡沫夢幻/諸行無常/栄枯盛衰」を思い出し、人間の弱さとかはかなさを思わされます。


 歴史上また聖書の中でも偉大な人物であり、信仰の深いダビデさへ、主よ、いったい人間とは何者なのでしょうか、あなたにとってこんな自分はどんな価値があるのでしょうかと神に問いかけています。そしてダビデは他の詩篇を通して、自分がいかに醜い罪深い人間であって、主に見放されても当然であると告白しています。「ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました」(詩篇51:5)


 しかし、この詩篇ではダビデは、自分のように、はかなく、小さく、弱く、罪深い汚れた者の全てをご存知でも顧みてくださるとは、神はいかに愛に満ち、寛容なお方であるかを驚きと喜びと感謝を込めて歌っています。イザヤ書43:4「私の目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」を思い出させてくれます。


 ダビデがそれまで勝利の人生を送ってくることができたのは、王の富でも、王の軍隊のせいではありません。それは神を愛し、すべてのことで神に信頼し従う信仰のゆえだったのです。


 しかし神の愛は、人間の側からは何もしなくても、主がそのご計画のすべてを成し遂げてくださるということではありません。人間の側からなすべきこと、また手段を、神は示してくださいます。「主は、戦いのために私の手を、戦のために私の指を、鍛えられる」(144:1)


 恵み深い天のお父さま、私たち人間一人一人はあなたに愛されるような価値はないものですけれども、それでも私たちをその深い愛で導いていてくださることを感謝します。そして私の罪を赦し、新しい永遠のいのちを与えるために、イエス様を私の罪の身代わりとして送ってくださいました。そればかりでなく、私たちを永遠の神の栄光の器として育て上げていくため、私たちの手を、また指を鍛えていてくださることを感謝します。

 God Is Good All The Time. アーメン


 
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