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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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『書き記されたさばき』


 この詩篇は、主が再臨された時の様子を描いたように、主なるイエスが王として君臨される様子を描いているのではないでしょうか。特に千年王国の様子のように読みました。この時は、主イエスをほめたたえながら、賛美をします。しかし、この千年王国には、主を信じる者も信じない者も一緒に暮らしていることを覚えなければなりません。主イエスが来られて、王として君臨され、クリスチャン達は生き返って、永遠の身体をもらって、主の手助けをする者も不ると思えば、悔い改めをしていない、不信者達も、同じ世にいるわけです。


 ですから、7節「それは国々に復讐し、もろもろの国民を懲らしめるため」懲らしめなければならない人間たちも、この時にはまだ存在していて、やがて彼らが、反キリストのもとに集まって、最後の反逆をすることが定められているのです。


 それから、白い御座の裁きが行われ、悪魔、反キリストの獣、偽預言者は硫黄の池に投げ込まれます。ヨハネの黙示録20章12節「また私は、死んだ人々が大きい者も小さい者も御座の前に立っているの見た。数々の書物が開かれた。書物がもう一つ開かれたが、それはいのちの書であった。死んだ者たちは、これらの書物に書かれていることにしたがい、自分の行いに応じてさばかれた。


 この詩篇9節aにある「また書き記されたさばきを 彼らの間で行うため。」とあります、書き記された書物は、一体 どのような書物であったのか。


 一つの書には、人間の一人一人の人生がレコードされて、罪を犯した時のことも、また、悔い改めて主の道を歩もうとしたこともすべて、書かれた書であろうと思います。自分の行いによって裁かれる証拠となる書です。しかし、もう一つの書があって、これはいのちの書。恐らく、この世で生まれた全ての人の名前が載っている書ですが、もしも主イエスを信じた場合には、その人の名前はそのまま残されています。しかし、信じない人は、きっと名前に、棒線が引いてあって消されてしまっているのではないでしょうか。この二つの書を比べられて、白い御座での判決の根拠となるわけです。


祈り

どうか私の名前が、いのちの書から消されることがありませんように、主の導かれる道を、歩み続ける力をお与えください。そして主のみおしえを喜びとし、賛美を怠りませんように、感謝をわすれませんように アーメン 

文:森 宗孝


 

『主をほめたたえよ』


 いよいよ長い詩篇のデボーションも終わりに近づいてきました。マルコの福音書16章15節の大宣教命令には「それから、イエスは彼らに言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者(preach the gospel to all creation NIV, preach the gospel to every creature KJV) に福音を宣べ伝えなさい。」この聖書の訳は、本来であれば、すべての被造物とされるべきで、世界の人に福音を伝えるだけでなく、被造物も含めた、全てのCreature 生きている物にと訳されるべきです。


 ですから、この詩篇では主をほめたたえよ 海の巨獣よ、火よ 雹よ 雪よ 煙よ、山々よと、ほめたたえるのは人間だけではなく、神の創造されたすべての被造物を指して、褒めたたえる事を示しているのです。


 私たちは、天草の海にむかって、朝の祈りの時に、堤防から主を褒め称えよと祈ったことがありました。これはお盆の翌朝で、海にはたくさんの灯籠流しが浮かんでいました。田舎の灯篭流しは、豪勢で、本物の木でできた舟盛り、ちょうど刺盛り用の舟を大きくした立派な灯篭流しがあったのです。 その海に向かって、主イエスを褒め称えよ、この地で本当の神の子、イエスが崇められますようにと目をつぶって祈っていたら、この堤防に大きな波が押し寄せてきたのです。 近くに漁船でもいるのかなぁと見回しても、そのような気配はありません。そして、沖を見ると、いままで浮いていた灯籠流しが、全部消えて無くなっていたのです。大宣教命令は、すべての被造物に対して福音を述べ伝えることであることを実感した朝でした。


 創世記1章17節に、人が罪を犯したので「大地は、あなたのゆえにのろわれる。」と書いてあります。人が罪による死を受けたと同時に、大地も神によって呪われているのです。そこから解放されるのが、福音です。すべてのものが主をほめたたえる日がやがて、主イエスの再臨の時に起こることが約束されています。その時には、主にある者だけでなく、被造物も含めた、世界の大コーラスで主が褒め称えられるのです。


祈り

主の御名をほめたたえます。すべての被造物も一緒に、主を賛美する日が来る事を待ち望みます。イスラエルの民も、異邦人である私たちも、山も川も海も、その中の獣もすべてが、主の御名をほめたたえる日が、来ますように! アーメン 

文:森 宗孝


 

『主のことば ダバール』


 今朝は、少し聖書の解釈から入ります。創世記で天地創造の記録から始まって、ヨハネの黙示録では、新天新地の完成の記録と、永遠に始まって、永遠に終わる書です。そしてこの詩篇の15節には「主は地に仰せのことば(ヘブル語でダバール)を送り そのみことばは速やかに走る。」とありますが、これは天地創造の始まりである、創世記1章3節「神は仰られた。『光、あれ。』とすると光があった。」 神はことばによって天地を造り始められました。そしてこのヘブル語ダバールとは、出来事という意味でもあるのです。

 神が語られた、みことばは、虚しく返ってくることがなく、出来事として起こるからです。


 少し、宣伝も兼ねて、自分はホノルル教会の土曜日の関先生の聖書クラスの代打として、しばらくヨハネの福音書1章の学びをしています。「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」ここで使われている、ことばは神の本質を現すメムラという原語で、創世記のダバールは、神の命令、実行力を現す言葉ですが、多いに関連しているわけです。そしてこの「ことば」神の実行力であることばがイエス・キリストであるとヨハネの福音書は語っているのです。


 このような理由で、この詩篇の15節のことばが、まず目に止まったのです。そして、続いて2節「主はエルサレムを建て イスラエルの散らされた者たちを集められる」まさに今のイスラエルの国の建設は、そのようにして国ができました。そして19節と20節は、非常に意味が深いです。

イスラエルには おきてとさばきを告げられる。主は どのような国々にも このようになさらなかった。 さばきについて彼らは知らない。ハレルヤ」

 人は罪によって死ぬ事と神の御座で裁かれる事が決まっていますと聖書は、語りますが、このさばきについて、国々は知らないというのです。どうでしょうか、日本を見ると、バチが当たるよ、地獄に落ちるよという、言い回しがありますし、けっして死後の世界で、裁きがあることを否定はしていないけれで、心から信じていないのではないかと心配になります。


 主イエスを信じて救われるということには、罪から救われること、肉体的な死から救われるのではなく、霊的な死から救われやがて永遠の復活の身体を頂くことですが、やがて行われる、御座の裁き、すべて亡くなった人たちも、この裁きを受けることになっていますが、この第二の死からも主イエスの十字架のおかげで、その信仰によって第二の死を受けることはないというのが、主イエスを信じて受ける恵みなのです。


祈り

私たちの傷を癒し、支えてくださる主に感謝します。主はやがてこの地で王となり、真の平和を築き、祝福を与えてくださることにハレルーヤ 心から感謝します。アーメン 

文: 森 宗孝


 
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