- hccnichigo
- 10月1日
『書き記されたさばき』
この詩篇は、主が再臨された時の様子を描いたように、主なるイエスが王として君臨される様子を描いているのではないでしょうか。特に千年王国の様子のように読みました。この時は、主イエスをほめたたえながら、賛美をします。しかし、この千年王国には、主を信じる者も信じない者も一緒に暮らしていることを覚えなければなりません。主イエスが来られて、王として君臨され、クリスチャン達は生き返って、永遠の身体をもらって、主の手助けをする者も不ると思えば、悔い改めをしていない、不信者達も、同じ世にいるわけです。
ですから、7節「それは国々に復讐し、もろもろの国民を懲らしめるため」懲らしめなければならない人間たちも、この時にはまだ存在していて、やがて彼らが、反キリストのもとに集まって、最後の反逆をすることが定められているのです。
それから、白い御座の裁きが行われ、悪魔、反キリストの獣、偽預言者は硫黄の池に投げ込まれます。ヨハネの黙示録20章12節「また私は、死んだ人々が大きい者も小さい者も御座の前に立っているの見た。数々の書物が開かれた。書物がもう一つ開かれたが、それはいのちの書であった。死んだ者たちは、これらの書物に書かれていることにしたがい、自分の行いに応じてさばかれた。」
この詩篇9節aにある「また書き記されたさばきを 彼らの間で行うため。」とあります、書き記された書物は、一体 どのような書物であったのか。
一つの書には、人間の一人一人の人生がレコードされて、罪を犯した時のことも、また、悔い改めて主の道を歩もうとしたこともすべて、書かれた書であろうと思います。自分の行いによって裁かれる証拠となる書です。しかし、もう一つの書があって、これはいのちの書。恐らく、この世で生まれた全ての人の名前が載っている書ですが、もしも主イエスを信じた場合には、その人の名前はそのまま残されています。しかし、信じない人は、きっと名前に、棒線が引いてあって消されてしまっているのではないでしょうか。この二つの書を比べられて、白い御座での判決の根拠となるわけです。
祈り
どうか私の名前が、いのちの書から消されることがありませんように、主の導かれる道を、歩み続ける力をお与えください。そして主のみおしえを喜びとし、賛美を怠りませんように、感謝をわすれませんように アーメン
文:森 宗孝

