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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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「あなたがたの間で、イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリストのほかには、何も知るまいと決心していたからです。」(2)


 パウロがコリントの街に来る前は、ギリシャのアテネで宣教しました。当時アテネの街には、哲学者、思想家たちが集まり、ひもすがら議論しあっているような状況がありました。そこでパウロもその議論に参加しキリストを弁証するのですが、結局、数多くある思想の一つとして扱われてしまうのです。

 パウロは、人間の知識、知恵によっては、人はイエスをキリストだと信じることは出来ないということを痛感したのでしょう。ですから彼は「十字架につけられたキリスト」を愚直に語っていくことを決心するのです。


「私のことばと宣教は、説得力のある知恵のことばによるものではなく、御霊と御力の現れるによるものでした。」(4)

 人を救うのは、あくまでも御霊の働きであるということです。


 私たちの宣教のことばも、相手に合わせて出来る限り分かりやすく、理路整然と、伝わることばで語ることが基本です。ことばが難解だったり、論理構成が支離滅裂だったりしたら相手に伝わりません。

 しかし、相手を説得しようと理屈で論破するような伝え方であったり、相手の反論の余地がないほどに完璧な理論武装をしても、それでその人がイエスを信じるかと言えば、そんなことはありません。

 

 私たちは最善を尽くしながらも、やはり御霊の働きがあって初めて人は、イエスを信じることができるのです。そして、御霊の働きとは、イエスの十字架を語るときこそあるのです。

 時代と共に宣教の方法や表現の仕方は変わっても、イエスの十字架を語ることが宣教のことばであることは変わることのない真理です。

 どんな時も「十字架につけられたキリスト」を語り続けて行きたいと思います。

 

 天の父なる神さま

 「十字架につけられたキリスト」イエスさま、あなたこそ私たちの救い主であり、宣べ伝えるべきお方です。どんな中にあっても、この宣教のことばを語り続けることができますように。どうか聖霊が私たちを励ましください。

  主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン                                         文:関真士


 

『義と聖と贖いのキリスト』


 今日からコリント書が始まりますが、少しこの手紙の背景を学びましょう。パウロはアテネのアレイパゴスでの伝道が失意の中に終わった後にコリントに来て伝道しました、それは紀元50年の秋から52年の春までです。その間に、主から恐れないで語り続けなさいとの言葉を頂き、自分と同じ天幕造りの職人であったプリスカとアクラという夫婦も暖かく彼を迎え入れてくれたので、長く滞在することができたのです。

 

 しかし、コリントは港町で栄えていたものの、遊興の町で乱れた町だったようです。そしてこのコリントの教会、派閥に走ったり、仲間割れがあったり、とにかく内部に課題が多い教会だったようです。これは2千年前の教会に限ったことではなく、今でも同じような問題を抱える教会もあるわけです。そのような内部の問題をきいた使徒パウロ、心配になったのでしょう。すでにコリントを離れてしばらくした、紀元55〜56年頃にエペソから、問題の多いコリントの教会に送ったパウロの手紙がコリント人への手紙なのです。どうやら最初に送った手紙は紛失してしまって、この第一の手紙は実は、パウロが書いた2番目の手紙であるという事が内容からやがて分かります。しかし、残っている手紙で一番古いので、第一の手紙としているのです。


 第1章でくりかえされることばは、キリスト・イエス。 最初にキリストと呼ぶ時には、主が救い主、油注がれたメシアであることを強調していて、イエス・キリストと呼ぶ場合には、人の子として来られたヨシュア、イエスを強調しているようです。


 自分の目が留まったのは、30節「しかし、あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。」ここには神の奥義が示されていると思ったのです。私たち人間を救うための神の知恵、私たちが思いもしなかった、神の御子を十字架にかけるという、驚きの展開は、確かに神の知恵でありましょう。ヘブル書には、モーセの律法を初めの契約と呼んで、このい契約が成立したのは、子牛と雄やぎの血を民全体にふりかけて成立した、新しいイエスによる契約も、それは律法と同じように遺言であって、遺言が有効になるのは、遺言者が死んでからであって、イエスはご自分の血によって、この新しい契約に効力を持たせた(ヘブル書9章)実にこれが旧約聖書の律法が詳しく説明されている理由、神の知恵なのかもしれません。


 キリストによって聖なる者とされ、恵みが与えられ、豊かな者とされ、証人となり、もう一度キリストが約束されたように、現れる日を待ち望み、それまで同じ心で一つになれるのです。それはキリストが神の知恵であって、キリストに神の義が表されて、聖なる方として私たちすべての人間の罪を赦されるために贖いのいけにえとなられたというパウロの、コリント教会を心配しながらも、神の奥義を伝えておりますこのコリントの手紙は、私たちの現代にも問いかけられている質問でもあります。

私たちは、証人として生きていますかと使徒パウロに問いかけられているようです。


祈り

 キリストに在って、豊かな者にされたことを心から感謝いたします。まだまだ、不完全で、足りない者ですが、主イエスと会う日を待ち望んでおります。アーメン

文:森 宗孝


 

『全民族に平和を語る』


 エステル記の最後の短い章ですが、やがてユダヤ人はクリスチャンのクリスマスの時期に、プリムの祭りを祝うようになってゆくのです。そしてこのプリムとは、プル「くじ」という言葉にちなんでいるわけですが、くじを引いた結果という事柄の背後に、神の摂理が働いているという考え方が聖書の立場です。


 実はサンフランシスコの次女宅に行く時には、必ずといって良いほど、宝くじ、ロッテリーMEGAを2ドルで購入しています。そして当たりくじが数百億になっているのを見ながら、このお金で何をしようと想像するのです。そして、主のために使いますが、少しは自分のために使っても良いですよね。などと独り言を言いながら当選を確認するのですが、今まで当たったことはありません。


 さてくじについて聖書はなんと言っているかというと:

 ヨナ記1章7節「人々は互いに言った。「さあ、だれのせいで、このわざわいが私たちに降りかかったのか、くじによって知ろう。」彼らがくじを引くと、そのくじはヨナに当たった。」

 ルカの福音書 バプテスマのヨハネの父親、祭司ザカリヤが神殿で主の使いに会うのですが、そのきっかけは1章9節「祭司職の慣習によってくじを引いたところ、主の神殿に入って香をたくことになった。

 使徒の働き イスカリオーテのユダの代わりに、12番目の使徒としてマッティアを選ぶのですが、1章26節「そして、二人のためにくじを引くと、くじはマッティアに当たったので、彼が十一人の使徒たちの仲間に加えられた。」他にもくじを引くことで、神の摂理に従おうとする記述は、たくさんあります。


 実は、エステル記には、神ということばは一言もでてこないのですが、「くじ」は6回も記されていて、ここに実は、神が摂理的な配慮をもって物事を逆転させるという考えが根底にあることを見逃してはいけません。


 私たちは、実に裸で産まれてきて、裸で天に戻りますので、この世での持ち物は役に立ちません、そして持ってゆくことができるのは、賛美であり、信仰だけですから、この世の旅をするにあたって、確かに多少の蓄えと衣服が必要ではありますが、蓄えを増やすことが、この人生の旅の目的ではないことを、私たちは理解する必要があるのですね。でも、もし自分がMEGA MILLIONが、当たってしまったら、どうしましょう!


祈り

 ユダヤ民族がモルデカイやエステルの働きによって守られましたが、歴史は常に神の聖なる民である、ユダヤ民族を、この世から取り去ってしまおうとサタンがやっきになっている事を理解致します。しかし、主の摂理によって、必ずアブラハムの子孫、ユダヤの民が全民族に平和を送る時がきますように。主の再臨をお待ちしております。アーメン  

文:森 宗孝


 
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