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2026年10月13日 マタイの福音書26章

hccnichigo
1 日前
読了時間: 3分

『カヤパ大祭司』


 ペテロの鶏が鳴く前に、三度あなたはわたしを知らないということから、エルサレム旅行では、その記念教会、鶏鳴教会は、大祭司カヤパの官邸の跡に建てられています。ここの中庭で、ペテロがそんな人は知らない、嘘ならのろわれてもよいと誓ってしまったわけです。 主イエスが捕まったゲツセマネから、おおよそ1.5キロほど離れた丘にあるのですが、主が捕まってから明け方になるまで、このカヤパ邸の地下にある竪穴の洞窟、昔は食料や水を貯めていたようです、ここに恐らく縛られてしばらく閉じ込められていたと言われています。


 31節「そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、今夜わたしにつまずきます。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散らされる』と書いてあるからです。」主イエスは、ただ一人このカヤパ邸の地下牢のような場所で、弟子達を失い、ひとりぼっちでいたことかと思うのです。この26章は、主イエスの十字架に向かう寸前の話で、最後の晩餐からゲツセマネでの祈り、主は自分が十字架につけられるために引き渡されると預言されていました重要な場面です。


 聖書には書かれておりませんが、主イエスがこのカヤパ邸の地下におられたと言われる場所を訪ねた時のことです。なんだか2千年前の主イエスが居られた空間に自分がいると思っただけで、鳥肌がたちましたが、ここで主イエスは何を一人で祈られていたのかと想像したのです。十字架にかかることが父なる神のみこころであることは、すでにご存知で、それに伴う肉体の苦痛を耐えられるようにと考えられたのかもしれませんが、自分は恐らく、十字架のことば「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分で何をしているのかが分かっていないのです。」と祈られたのではないかと思うのです。ここに自分が訪ねたカヤパ邸の地下での様子添付します。




 もしも、イエスを捕えに来たしもべにペテロが剣を抜いて耳を切り落とした時に、その耳を癒されなかったら、きっとペテロもイエスと一緒に捕まっていたことでしょう、しかしそれは主の望んでおられたことではなかったのです。またイスカリオーテのユダの裏切りがなければ、過越の祭りに神の子羊、献げ物としての十字架は実現しませんし、主イエスが多くの御使いを呼び出して、奇跡を起こしてローマ軍や祭司たちから救い出されたとしたら、贖いの十字架もありません。十字架教であるキリスト教も生まれてこなかったのです。父なる神は、サタンをも利用されたというか、悪の力も使われて、主の十字架を過越しの祭りのタイミングで実施されたことは、まことに主の意図していたことが読み取れます。


祈り

感謝します。主の捧げられた十字架によって私たちの罪が贖われたことを理解できますことに感謝です。どうかひとりでも多くの人に、この福音を伝えられますように。 アーメン 

文: 森 宗孝


 
 
 

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