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2026年10月12日 マタイの福音書25章

hccnichigo
2 日前
読了時間: 3分

『羊とやぎ』


 天の御国を主が、またもたとえ話で説明をされている箇所です。最初にでてきます十人の娘たち、五人は油を切らしてしまって、さいごには婚礼の宴、天の御国に入れない。次に良いしもべ、自分に渡されたタレントを増やす、自分の賜物をよく使ったしもべと、地の中に隠して賜物を使わなかった悪いしもべのたとえ話ですが、要点は、どちらも両方とも主を慕う者たちを表していると思うのです。油、つまり聖霊を切らしてしまったクリスチャン、自分に与えられた賜物を使わなかったクリスチャンと考えられるのではないかと理解しました。そういう意味では、本物のクリスチャンと偽物のクリスチャンと言っても良いかもしれません。ここで心配になるのは、聖霊を切らしたクリスチャン、自分の賜物をこの地で主のために使わずにいるクリスチャンは、御国に入ることが出来なくなるのかという疑問です。


 私たちは主イエスを信じて、愛する事によってすでに、今までの罪が赦され、これから起こしてしまう罪からをも赦されるという、神との和解をすでに頂いたはずではなかったのか、それでも天の御国に入れない可能性もあるのかという素朴な疑問にぶつかるのです。同時に本物のクリスチャンとはどういう人のことがということも考えさせられました。ヤコブの手紙2:14「私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立つでしょうか。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。」ですから、主イエスを愛する者は、主イエスのように愛する者としての行いが自然に発生するということでしょうか。 自分自身に与えられた聖霊を切らさないように、聖霊のうめきと共に、求められている行いを、それが大きなことであれ、小さいことであれ従うこと、それが自分に与えられた賜物を使うことに繋がるのかもしれません。


 ここ33節にあります「羊を自分の右に、やぎを左に置きます。」というのは、レビ記の16章の贖罪の日でのささげ物の話に似ている気がします。レビ記では雄やぎ二匹のうち一匹は主への罪のきよめとして全勝のささげ物となり、もう一匹は荒野に追いやられるとされています。そうしてエゼキエル書34:17になると今度は、神が羊と羊の間、雄羊と雄やぎの間をさばくともあります。 それに応答するように、このマタイでは、羊は祝された者、やぎは呪われた者として、きっと終末の裁きが描かれていることに違いがあるのでしょう。主の右におかれた本物のクリスチャンは、知らず知らずのうちに空腹の者を助け、弱い者に手を差し伸べています。しかし、左のやぎは、偽のクリスチャンでしょうか、マタイ7:21 「私に向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」とはっきりと本物の信者と偽物の信者を区別されていることが理解できます。


祈り

どうか自分自身が、天の父のみこころを理解して、知ることによって、みこころを行う者と主イエスによって変えて頂けますように、主の右の羊として従順に主に従うことができますように。 アーメン

文:森 宗孝


 
 
 

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