この5章から7章には「山上の教え」が記されている。その内容は、神の国における生き方の指針である。これは、それまでの生き方の指針であったモーセの律法を、破棄したのではなく、アップデイトしたと言えるだろう。
3節から10節の「八福の教え」や、「右の頬を打たれたら、左の頬をを向けなさい」(39)「自分の敵を愛しなさい」(44)など、聞き覚えのあることばがある。
この中で特に「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。」(4)に注目したい。
私たちは、悲しみという感情を持った人間として神に造られた。悲しみとは、とても大切な感情なのだ。ともすると、悲しみはない方がいいと思われる。確かに悲しみの原因となった出来事に関しては無い方がいいだろう。しかし、原因ではなく、悲しみという感情は、逆になければならないものだ。
何が辛いって、泣くべき時に泣けない、悲しむべき時に悲しめないということだ。愛する者を失った時、悲しんでいられない状況もある。生きるためには泣いている暇などない強くなければと、涙を堪えなければならない事もある。あまりのショックに涙も出ないという事もあるだろう。
しかし、その悲しみという感情は、涙と共に表に出さないと、心の奥にあり続けることになる。それが心の底に沈殿していくと、心と身体のバランスが狂うこともある。
また私たち、善意ではあるが、悲しみにある人を励ましてしまうこともある。早く元気になって欲しいと思うあまり、言葉を尽くしてなんとか悲しみを終わらせようとする。しかし、それは悲しむというとても大切な癒しのプロセスを妨げることになる。逆に、その人が安心して十分に泣き、悲しむことができるように寄り添うことだ。
悲しい時に、悲しめることは、とても幸いなことなのだ。イエスさまは、私たちの心、感情を大切にしてくださる。その悲しみに寄り添い、共に涙してくださる方なのだ。悲しみを我慢するのではなく、イエスと共に悲しむとき、そこに神の慰めが与えられる。それが幸いなことなのだ。
「彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉の湧く所とします。」(詩篇84:6)
そして、イエスと共に流す涙は、やがて賛美の泉へと昇華されていくのだ。
天の父なる神さま
私たちは、悲しむことがあります。涙を流すことがあります。あなたは、その涙の一滴一滴を受け留めてくださり、私たちの悲しみに寄り添ってくださることを感謝します。そして、その涙が、必ず賛美の泉とされることを感謝します。
どうか私たちも、他者の悲しみに寄り添い、共に喜び共に泣く者でありますように。慰めを器として用いてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
文:関真士
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