ルカの福音書 22章
「みこころがなりますように」
コロナ禍以前、ある兄弟が教えてくれた。「何でも天のお父さんにお願いして祈ったらいいよ、それがみこころならば、必ず叶えて下さるから。」そうか祈ってお願いしたらいいのか、と思い勝手なお願いばかりの祈りが続いた。そのうち私の人生の中で機転となる一つの願いが叶い、そうかこれが御心だから叶えてくださったのかと気づく。全ては神のご意志ならば成る、ということである。
22章は、イエス様が十字架にかかられる前日の話しである。12使徒の一人、イスカリオテのユダの裏切り、『最後の晩餐』の場面、シモンペテロが鶏が鳴くまでに3度イエスを知らないと言う有名な場面、そして総督ピラトにイエス様が引き渡されるまでの場面と盛りだくさんである。なぜユダは裏切ったのでしょう。サタンが彼に入ったと書いてある。
当時、口づけは友人同士でも行われており、男女問わず挨拶として一般的だったそうです。ユダは口づけを合図としてイエス様を裏切る。
19節、それからパンを取り、感謝を捧げてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。「これはあなたがたのために与えられる、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行いなさい。」20節、「食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯はあなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約です。」この様子は現在の聖餐式の原型となっている。 昔のイスラエルの食事は床に座って、まるで寝そべるかのようにしてリラックスしながらだったと中川健一先生が説明して下さった。この契約の時はどうだったのだろうと、思いめぐらしてみる。もしかしてあぐらをかいていたのか、正座してた? 使徒たちはこの時、イエス様が翌日十字架に掛けられるとは思ってはいなかっただろうから、やっぱりあぐら、などと考える。ホノルル教会では月に1度、聖餐式を行い、このイエス様との契約を心新たに覚える。
イエス様は40節で「誘惑に陥らないように祈っていなさい」と言われた。肉なる人間は誘惑に陥りやすいのです。
祈っていなさいと言われたのに使徒たちでさえ眠りに誘われてしまう。この世は誘惑に満ちている。美しいものや人、富、栄誉、美味しいもの、アルコールやドラッグなどなど。命がなくなれば、価値のないものばかり。サタンの誘惑はこの世に満ちている。形なき信仰だけは何にもまして尊い。
イエス様はすべてご存知の上で自ら十字架に掛かる。そのことも知っていながらひたすら祈る。42節こう言った、「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」
ユダもサタンの誘惑に陥りイエス様を裏切る。ペテロ(岩)とイエス様から名前を授かった彼でさえ保身のためイエス様とは何の関わりもないと言い切ってしまう。ペテロはのちに後悔して、62節「そして、外に出て行って、激しく泣いた。」。この時のイエス様とペテロはそれぞれどのような思いであったろうか? ペテロの後悔もイエス様はご存知だったはず。なぜならイエス様はこれ以前に、マタイ16:18で、「そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。」そして後悔したペテロに復活のイエス様が現れ弟子たちのお世話をするよう3度命じられた。ヨハネの福音書21:15でイエス様がペテロに、「わたしの子羊を飼いなさい。」と言われた。全てをご存知で何の罪もないイエス様が人間の罪のために十字架に掛かられる。この後ペテロは弟子のリーダー的存在となり、御言葉を世界に向けて伝える発信源となる。
肉なる人間は誘惑に陥りやすいと聖書に書かれている。まさにその通り。ペテロと同じように保身のために嘘を言ってしまったことが自分もあると、リペントする。イエス様も祈られたように「みこころがなりますように」と祈りたい。
祈り:
愛する天のお父様、今日という日もありがとうございます。あなたが私たち人間の罪のため御子イエスの命を犠牲にしてまで私たちを救って下さったことに感謝します。「全てはあなたのみこころがなりますように」と祈れる者と成長させて下さい。この世は誘惑だらけです。良いことばかりではありません。一見、義と思えるものも誘惑だったりします。本物と思えるものも偽物だったりします。私たち肉による判断ではなく、あなたの真理に基づいて正確な判断が日々できるよう導いて下さい。尊い主イエスキリストの御名により祈ります。アーメン
Комментарии