ヨブ記31章
『もし、キリストにあって‥‥』
●学んだこと:
「神は私の道をご覧にならないのだろうか。私の歩みのすべてを数えておられないのだろうか。」(31:4)
26章から続くヨブの「言い分」、自己弁護。美しく格調のある文体で、饒舌な言葉を重ねてきたヨブ。
29章で過去を語り、30章で今を語り、この31章では「もし」という仮定的なアプローチで、ヨブの身の潔白(義)を検証する。
これら延々と続いてきた「言い分」で、最大にして唯一の、ヨブの”知りたいこと”、切なる関心は、上記の聖書箇所である、ヨブ自身に対する神さまの関わり方だ。御心を知りたい、聞きたい、それがすべてなのだ。
そのために「もし」と仮定しながら、罪過に対する潔白を主張してみせる。
偽りごとはない(5〜6節)、不正はしていない(7〜8節)、姦淫はしていない(9〜12節)、召使の訴えを拒まない(13〜14)など、この章の終わりまで仮定による検証は10コ以上続く。そして神さまに直訴する。
「だれか、私の言うことを聞いてくれる者はいないのか。ーここに私の署名がある。全能者が私に答えてくださるようにー」(35節)
歌舞伎でいえば、血判のついた果たし状を渡す、大見得をきる場面だ。
私はヨブの一途さが羨ましい。やり方は間違っているかもしれないけれど、神さまだけを求める姿が愛おしい。
そして私はイエスさまの十字架を感謝する。
ヨブの「もし」の言葉の後に、「キリストにあって」をインサートできることで、私たちの罪が赦されていることを感謝する。アメージンググレイス!
●祈り:
愛する天のお父さま。イエスさまの時代に生きることができる恵みを感謝します。
ヨブは「私の竪琴は喪のためとなり、私の笛は泣き悲しむ者の声となった。」(29:31)
と嘆きます。神さまのいない孤独と絶望を、ヨブを通してあらわしてくださってありがとうございます。嘆きは祈りで、いつか喜びに変わることを信じます。
詩編の一番最後の御言葉を口ずさみ、祈ります。
「角笛を吹き鳴らして、神をほめたたえよ。琴と竪琴に合わせて神をほめたたえよ。」(150:3)
イエスさまの御名で感謝して祈ります。アーメン