top of page
  • hccnichigo

2021年4月18日ディボーション


Ⅱ歴代誌33章


 ヒゼキヤ王の後を継いだのはマナセであった。彼は、父ヒゼキヤが取り壊した偶像礼拝のための祭壇や礼拝所を築き直すという事を行った。主のことばを退け、しかも神の宮の中に偶像の彫像を安置するという暴挙まで行った。

 そのために主の裁きがくだったという、これまでも繰り返されているパターンである。しかし、マナセは、ここで悔い改めたのだ。

「しかし、彼は苦しみの中で彼の神、主い嘆願し、父祖の神の前に大いにへりくだり、神に祈ったので、神は彼の願いを聞き入れ、その切なる求めを聞いて、彼をエルサレムの彼の王国に戻された。こうしてマナセは、主こそ神であることを知った。」(12,13)


 へりくだって悔い改めることができるかどうかが、道の分かれ目となる。真の神を捨て、偶像を拝んだということは、まぎれもない「罪」である。もちろん、罪を犯さないことが一番だが、大切なのは、罪を犯してしまったときに、どうするかである。

 開き直る、誤魔化す、隠れる、言い訳をする、責任を転嫁する‥‥。それとも「大いにへりくだって」神に祈るかどうか。

 マナセは、「苦しい時の神頼み」であったと思う。都合が良いと言えばその通りだ。しかし、神に求めたのである。そのような者の求めを「神は聞き入れて」くださったのだ。

 大切なことは、主の目に「罪」を犯した時に、どんな時でも、どんな自分でも、とにかく「神に求める」ことなんだと思う。そこが、もっとも大切な選択の時であり、どの道を選ぶかで、その後がまったく違ってくる。

 「神に求める」選択をするなら、そこに至った道がどうであったとしても、主は、その後の道を祝福に変えてくださるのだ。

 そして「主こそ、神であることを知る」とあるように、罪を見逃さない聖なる神である方が、どこまでも罪人を愛し、救ってくださる神であること、そのために御子を十字架にまでかけてくださったお方であるという、真の神のお姿を知ることになるのだ。


語られたこと:

 とにもかくにも、「神を求める」ことだ。良い時も悪い時も、どんな時でも、どんな自分であっても、そのままの自分で神を求める者でありたい。


祈り: 

 天の父なる神さま。私が主の目に良いことをする自分でありますように。もし主の目に悪を行ってしまったら、へりくだって主よ、あなたに求める者でありますように。そしてもっともっと主よ、あなたを知ることができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン


閲覧数:11回

最新記事

すべて表示

2021年12月31日 ディボーション

詩篇第五巻 121篇 『主はあなたを守る方』 今、不安な日々を過ごしている人、深い悲しみに打ち沈んでいる人、思うようにならなくて焦っている人、どれほど頑張っても満足が得られない人、悲観的なものの見方しかできない人、過去の傷の痛みを引きずったままの人、怒りの感情をうまく処理できずに苦しんでいる人、自分は誰かの重荷でしかないと感じる人、この世から消えてしまいたいと思っている人たちへ、聖書の御言葉が伝わ

2021年12 月30日 ディボーション

詩篇第五巻 120篇 “Lord, Fill Us With Your Truth!” 詩篇120篇は、120篇から134篇までの15の詩篇のうち、「都上りの歌」と呼ばれる詩篇の最初のものです。英語の"Ascents "という言葉は、「高いところへの旅 」という意味です。 非常に短い詩編ですが、基本的には4つの部分に分けることができます。1節では、過去にヤハウェがどのように祈りに答えてくださったか

2021年12月29日 ディボーション

詩篇第五巻 119篇 「主よ 私の叫びが御前に近づきますように。あなたのみことばのとおりに 私に悟り を与えてください。」(169節) 誰でも災難に遭うのが分かっているのに、それに向かって進むのは嫌だ。しかし信 仰によって立つと言うことは私の不安は二の次にして、主が守ってくださる事を信じて 突き進むことにあるのだと思う。 『前科者』と言う新米保護師のドラマを見て、同じ社会奉仕をしていた祖父の事を

bottom of page