ヨブ記20章
『誰が分かり得ようか』
「ナアマ人ツォファルは答えた。こうだから、苛立つ思いが私に応答させるのだ。私の心の焦りのゆえに。」1〜2節
何が彼の思いを苛立たせるのか? 何が彼の心を焦らせるのか? 一番苦しいのは、当事者である友のヨブではないか。ヨブは叫んでいたではないか。
「あなたがた、私の友よ。あわれんでくれ。私をあわれんでくれ。」19章21節
それなのに、苦しみの絶頂から溢れるヨブの嘆き、それでもなくならない神への信仰に、ツォファルはヨブの心とは関係なしに、自分の言葉をヨブに押し返す。
私はここから、自分は分かりきっていると思い込んでいることほど難しいことはない、と痛感させられている。ツォファルは、「悟りを与える霊が私に答えを促すのだ。」(3節)とまで言い切ってしまう。そして、苦難の当事者ヨブにまで、その答えを押し付けてしまう。
「あなたは確かに知っているはずだ。」4節
ツォファルが、自分は知っていると思い込んでいること…、それが5節にある。
「悪しき者の喜びは短く、神を敬わない者の楽しみは束の間だ。」
そして、それからツォファルは、「彼は…」と苦しみのヨブと結びつけて、「これが悪しき人間が神から受ける分、神によって定められた、彼の受け継ぐものである。」(29節)と結論づけてしまう。
人の持つ愚かさに恐怖さえ覚えてしまうのは、私だけだろうか。誰が知れるだろうか? 誰が分かりきれるだろうか? 今ここで苦難の絶頂にあるこの人のことを。
天のお父様、
理解できないことに直面しても、自分は知り得ているという罠にはまらないように、私の心を主よ、あなたがいつもご支配ください。
たとえ、人間的に分からないことがあっても、いつも、あなただけを神とし、あなたをおそれ畏むことができますように。たとえ、そのような中であっても、そのままで神様あなたに全き信頼を置くことができますように。そして、そこから生まれる本物の霊的同伴を体験することができますように、私を守り導いてください。アーメン。
Comments