top of page
  • HCCnichigo

2020年9月9日ディボーション

更新日:2020年10月3日

ヨハネの福音書 15章5節 

「私はぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。」


【9月6日の関先生の説教から神様に語られた事】


 イエスの下さる御霊の実が目の前に置かれたら、私はどの実をいただくか?

私は、まよわず“寛容”を頂くことに手がのびました。

 それは、ある日を境に私自身から“寛容”さがなくなっていることに今日はっきりと、神様が気づかせくださりました。人との関係で、人が言ったことに対して心が病み、許せずにその葛藤で苦しむ自分がいました。頭では許せていても心の中では完全には許せていなかった。その方に対して“寛容”な気持ちで接することができなくなっていた自分自身になっていました。なんと悲しくて怖いことでしょうか?

“人を赦さなければ自分自身が神に赦されない”ということは何度も耳にしてきた大事なことなのに、現実に問題と向き合った時に、そのような大事なことは失せてしまっていた。大いに悔い改めさせられるところであります。

“御霊の実”を結ぶためには、どうすればではなくて、イエス様のことばを信じて受け入れることだということを関牧師より語られました。私達の信仰は

イエス様のみことばに生きること。そうなりたいと思いました。


祈り

 愛する天のお父様、今日の礼拝を心から感謝します。

 礼拝のメッセージで私に気づかせてくださったみことばをありがとうございます。私には人に対する“寛容”さがなくなっていました。今日からは“寛容”の実を結ぶことができるように、イエス様のことばを日々信じて受け入れることができるように歩ませて下さい。イエス様の御名によって祈ります。アーメン

閲覧数:10回

最新記事

すべて表示

ヨハネの福音書21章 『福音の末広がり』 いよいよ福音書の終わりの21章です。ここは復活された主イエスが夜どうし漁に行っていた7人の弟子たちに湖畔で朝ご飯を用意して待っておられ、そこでペテロに3度わたしを愛しているか? と尋ねる場面です。まず始めに福音書全体の流れ、特に4福音書のそれぞれの終わり方に注目してみましょう。 マタイの終わりは主イエスの墓からのよみがえり、復活が最後の28章の場面、マルコ

ヨハネの福音書20章 『見ないで信じる』 「イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです」」(29) 遂に、イエス復活の朝を迎えました。 イエスのよみがえりを、マグダラのマリアから聞いたペテロとヨハネは、走って墓に向かいました。墓に先に着いたのはヨハネでした。彼は、身をかがめると、亜麻布が置いてあるのが見えましたが、墓の中には入りませんでした。 次

ヨハネの福音書 19章 「イエスは酸いぶどう酒を受けると、「完了した」と言われた。そして、頭を垂れて霊をお渡しになった。」30節 イエスさまが、最後に成されたことは、ご自身の母のことを愛する弟子ヨハネに託すことだった。とても心に残るところである。 「イエスは、母とそばに立っている愛する弟子を見て、母に「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」と言われた。」26節 「それから、その弟子に「ご覧なさい。

bottom of page