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2020年12月7日ディボーション

旧約聖書 サムエル記 第二 22章


「ダビデの魂の叫び、神への賛美」


7節「私は苦しみの中で主を呼び求め、わが神に叫んだ。主はその宮で私の声をきかれ、私の叫びは御耳に届いた。」


●語られたこと

 私はどんな時に主を呼び求め、主に叫んでいるだろうか? 大変な時だけか? ダビデのように全ての敵の手から救いだされた時だろうか?

 このダビデの賛美は1節にあるように「サウルの手から救い出された日」(サムエル記第一31章)に、ダビデが歌った神への賛美。詩篇18篇に同じ賛美が載せられている。筆者のナタンとガド。どうしてこの場所にこの賛美を持って来たのか?

 サムエル記第一でダビデは心から主の声を聴き従う者として表現される。しかしサムエル記第二ではダビデの失態の数々が紹介される。神様の前にダビデのダークサイドが表現される。

綺麗事の聖人君主のようなダビデではなく、ごく一般の人と同じである事を感じ取れることがあり、ちょっとほっとする。なぜから、そんなダビデも主はお救いになるから。

 発達心理学を学んだ時に人の成長に影響するのは、「Nature (持って生まれたままの素質)」か、それとも「Nurture(成長する過程によって育まれたもの)」かと言うお題があった。どちらも大切だけれど、ダビデは間違ったらきちんと謝れる存在として生まれたのではないかと思う。そうでなければ、イスラエルを追われた時に泣きながら主に叫ばない。

沢山間違いを犯したダビデだが、主に愛され、助けられたのは、主の目に正しい、過ちを認めて主に立ち返ることが出来る存在だったからではないだろうか。

 私たちは元々神様に愛された存在として生まれている。沢山の神様の恵みの中で生きている。しかし立ち止まるきっかけが無いとその恵みに気づけない。

 私は高校三年生の夏に、親の離婚と父の会社の倒産と言うダブルパンチで家が無くなった。それまで沢山の恵みを受けていた事に気づいていなかった。苦しみを経験し、主の愛によってそれを乗り越えた時、ダビデのような魂の賛美が生まれる。今の私はダビデのこの時の気持ちがよく分かる。どん底から救ってくださった主(17節)。広いところに連れ出して、他の世界を見せてくださった主(20節)。ダビデのように実際に神の教えと愛を学んだから賛美せずにはいられない。一人でも多くの人が主の愛に気づくよう、救われるよう祈りたい。


●祈り

 天の父なる神様。今日も貴方によって生かされている、用いられていることに感謝いたします。貴方が私にしてくださった事。それは全て恵みです。私を捉えて、導いてくださりありがとうございます。罪人の私です。もし貴方の御心で無い時はまた私を撃ってください。そしてダビデのように救ってください。

 泣きながら叫んだ私の声を聞いてくださった貴方です。貴方が備えてくださった事を受け入れます。神様、全てを感謝します。

 主イエスキリストのお名前によって、御前にお捧げいたします。アーメン。

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