旧約聖書:2サムエル記11章
「主は、生きておられる」
さて、この11章に記されている事は、ダビデの生涯における最大の過ち、汚点と言ってよいだろう。人妻であるバテ・シェバとの姦通、事件のもみ消し、夫ウリヤの謀殺(しかも異邦人に手にかけて)。ダビデに失望する人も少なくない。
一般的には、王には、その功績を記録する係がいて王の年代記を記すものだが、大概において、敗北や汚点は記さず、輝かしい部分を大げさに記すものだ。しかし、聖書は容赦がない。ダビデの過ちも、ぺテロの失敗も包み隠さず記す。それは、聖書が神から私たちへのメッセージを伝えるものだからだろう。私たちは、このダビデの過ちからも、神のメッセージを受け取ることが出来る。
まずこの時、ダビデ王国は安定期に入っていたと思われる。ダビデはもはや戦場には行かなかった。(11:1) ここに油断があったのではないか。命がけの戦いの中にある時には、必死になって主を求めるが、安定してしまうと主に求めることをしなくなってしまう、そこに悪魔への隙が生じてしまうのだ。これは私たちへの教訓となる。
さらに、この過ちの本質は何だろう。姦通、殺人、これらは一つの結果であって、そこに至ることになった原因がある。12章で預言者ナタンがダビデのもとに来て、ダビデの罪を指摘する。そこで言われていることは、「奪い取った」(12:4,9)ということだ。富める者が貧しい者から奪い取る。強い者が弱い者から奪い取る。
今の時代も同じ罪の構図を見る。一部の資本家が富を独占し、富める者、国が、貧しい者、国から奪い取るという構図だ。この世界には「奪い取る」という力が働いている。
私たちは、この罪の世界に対して奪い取る事とは真逆に「与える」者でありたい。それが神の国の価値観である。
ダビデが過ちを犯すことになった本当の原因は、主に求めなかったという事にある。主は、ダビデに言われた。わたしはあなたに十分に与えている「それでも少ないというのなら、あなたにもっと多くのものを増し加えたであろう」(11:8)と。
ダビデは、神が自分にどれだけ良くしてくださったのかを忘れてしまったのだろうか。神の恵みを忘れる時、人は高慢になる。自分の力で手に入れることが出来ると勘違いしてしまう。主に求めるより、自分の力で何でも出来ると思ってしまう。
このダビデと神との関係おける「ずれ」が、この過ちを生み出してしまったのだ。
しかし、このダビデは再起していく。彼の悔い改めの詩篇である51篇を合わせて読みたい。
また詩篇103篇2節の「わがたましいよ、主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」の詩は、ダビデにとってとても深い意味を持っていたと思うのだ。
語られたこと
試練の時が過ぎたとき、安心が油断につながることがある。神の恵みを忘れ、高慢にならないように、自分が権威や権力を持った時にこそ謙遜であるように。神との関係において、いつも親密さを保てるように、自分の心の弱さを知り認めることが出来るように。ダビデの過ちから学んだ。
祈り
天の父よ。私たちが、あなたとの関係においてずれることがありませんように、いつもあなたと親密な関係を保てるように、聖霊がどうぞ助けてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
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