旧約聖書:2サムエル記1章
「神の主権 最後のレッスン」
サウルは、息子ヨナタンと共に戦死した。彼の最期の様子は、31章4節に記されている。
しかし、ある男がダビデの所にやってきて、自分がサウルにとどめを刺したと言うのだ。その証拠に王冠と腕輪まで持ってきた。この男は、嘘をついているが、ダビデに喜ばれて報奨金をもらえるだろうと期待していたのだろう。しかしダビデは、「主に油注がれた方に手を下して殺すのを恐れなかったとは、どうしたことか」(14)と言って、この男を討ったのだ。ここでもダビデは、サウルに対する主の油注ぎを認め、畏れ、神の主権を侵すことをしなかった。
サウルの死後、サウルの息子イシュ・ボシェテが王となったが、ユダ部族だけはダビデを王とした(2:10)。両家の力の差は歴然で、「ダビデはますます強くなり、サウルの家はますます弱くなった。」(3:1)と記されている。
しかし、それでもダビデは、自力でイスラエル全部族の王になろうとはしない。王になる力があるにもかかわらず、彼は神の時を待つ。これがダビデ王になるための最後のレッスンだったように思える。
そしてついに、ユダ部族の王となってから7年6ケ月の時を経て、イスラエルの全長老がダビデに油を注ぎ、彼は晴れてイスラエルの王となったのだ。(5章1節~6節)
サウルは、7日間が待てずに祝福を失った。しかしダビデは7年間待つことができて祝福を得た。ダビデは、徹頭徹尾、油注ぎという事に対して神の主権を尊んだ。自分が逃避行にある窮地の時も、すでに力と人心を得ている時も、どんな状態にあっても神の油注ぎという主権を侵すことはなかった。
またダビデは、油注ぎが2回あることを知っていた。彼が油注がれたのは少年の時だ。これは神からの直接の油注ぎと言える。だからと言って、彼は自分が王として選ばれていることを主張しなかった。今度は民の長老達が自分に油を注ぐのを待ったのだ。神からの油注ぎ、それを認めた民からの油注ぎ、この両者があって初めて王として立ったのだ。
これは現代においても同じで、例えば私が神の召し(油注ぎ)を頂いたのは、22歳の時であった、その後、神学校で学び、按手礼(教会の油注ぎ)を受けたのが33歳の時であった。その時に牧師として認められたのだ。
このように、神の油注ぎと、それを認めた教会からの油注ぎがあって初めて神の働き人として立っていける。このプロセスを軽んじてしまうとき、サウルと同じ過ちを犯すことになってしまう。
語られたこと
神の主権を尊び、従うことの重要性を学んだ。ダビデが王になる前のレッスンとは、まさに、神の主権を徹底的に知ることだったのだと思う。私も神の主権に従う者として歩んでいきたい。
祈り
天の父よ。私たちが、神の主権に従い、神の祝福を得る者でありますように。どうぞ聖霊が助け導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
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