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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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 5章では、パウロがコリントの教会に対し、教会内にある罪を放置してはならないと厳しく戒めています。教会の兄弟姉妹、神の家族なわけですが、それは罪を見過ごすことではなく、聖さを保つために正しく対処する責任があることを教えています。


「あなたがたが誇っているのは、良くないことです。わずかなパン種が、こねた粉全体をふくらませることを、あなたがたは知らないのですか。」(6)


 罪をそのままにすると広がり、その人だけでなく、教会全体に影響を及ぼします。私の教会でも、様々な罪深い問題があると思うのです。私自身も離婚を経験し、現在は婚姻関係にはないパートナーがいます。聖書には「妻も、夫を離縁して別の男に嫁ぐなら、姦淫を犯すのです。」と記されていますが(マルコ10:12)、私もまた罪の現実と向き合いながら神さまの前に立っています。


 学びのクラスの時、牧師先生が、ある信徒から「この不倫、先生ならわかってくれると思った」と言われ、憤慨していたことを思い出しました。それは、罪を軽く扱い、正しい悔い改めを求めない態度が問題だったからでしょう。神さまは愛の方ですが、その愛は私たちが罪を持ったままでよいということではなく、悔い改めを通して聖められるように導く愛なのだと教えていただきました。


 罪をみとめることは、私たちを裁くためではなく、キリストの赦しと回復へと導くためのものです。私自身も過去の過ちを悔い改めつつ、神の御前で新しくされたいと願います。


「外部の人たちは神がおさばきになります。『あなたがたの中からその悪い者を除き去りなさい。』」(13)


 とても厳しい言葉ですが、パウロが求めているのは単なる裁きではなく、教会の聖さを保つための愛からくるものだと思うのです。罪を指摘することは、裁くことではなく、神の聖さへと導くことなのでしょう。私たちが互いに霊的に目を覚まし、聖さを求めることで、キリストの体である教会が成長していくのだと思います。



愛する天のお父さま

 あなたの御前に罪を悔い改めます。私の過去の過ち、そして今なお抱えている罪を認めます。どうか、私の心を探り、あなたの御心に従う道へと導いてください。 教会があなたの聖さを保ち、互いに愛をもって罪から立ち返ることができるように助けてください。 イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。 アーメン



 

 教会の指導的な立場に立った時、どんなことを心掛けるのかを3章に続いてパウロは語ります。 第一にキリスのしもべであると心得、また「神の奥義の管理者」として自覚を持とう、と言います。管理者にとって、キリスト教会の上に立つ者にとって重要なのは、主人である神に忠実であること、忠実さだということを心得ておくことでしょうか。上に立つ立場になったからといって、神の上に立つような勘違いはもってのほかです。


 結局、コリントの教会の人たちに争いがあったのは、彼らの真ん中に「神」が正しく位置付けられていなかったためでしょうか。彼らは、この世の人々と同じで、神不在の人間的な上下の世界で物事を考えていました。神との決定的な関係に、もう一度立ち戻らなくてはならないということです。全ては神に備えていただき、神の恵みにあって生きている、そう思わされた出発点に立たなくてはなりません。  信仰を持ったら、人は自分を神の下にはっきり位置付け、その下にも上にも誰も置きません。


 14節で、パウロは、コリントの教会を生み出した父として、自分に倣うように勧めます。これから先、コリント人はたくさんの養育係、つまり教師の指導を受けるかもしれませんが、パウロは、自分は養育係に指示を与えている父である、と言います。だから自分の方針に従って欲しいと言います。では、それはどんな方針なのかというと、自分をこの世の屑、かすと思い、誰も自分の下に置かないこと、ただ神の僕として生きることです(13節)。そして、テモテを遣わすので、彼にその模範を見て欲しいと言います。実際テモテは、実に、主に忠実な者でした。大切なことは、神に忠実な者として生き、自分の下に誰も置かないことです。そして霊的な実質を持つことです。口先ではなく、神を知っている者として、神の力に生きる実質を持つことです。神の国は、ことばではなく力にあるのです(20節)。


主の祈り:自分の下には誰も置かず、ただ神の僕として、上を見上げる信仰生活を続けたいと願います。今日の御言葉を感謝して祈ります。アーメン


 

 「ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。植える者と水を注ぐ者は一つとなって働き、それぞれ自分の労苦に応じて自分の報酬を受けるのです。私たちは神のために働く同労者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。」7~9節



 3章でパウロは、コリントの教会の信徒が「キリストにある幼子」から「御霊に属する人」に成長するようにとの願いがこめられているそうです。パウロがコリントの教会の人々に語ったことは、私たちの教会に示されることでもあります。色々と問題が多かったコリントの教会の人々に愛をもって語っています。教会はキリストの体です。私たちは、それぞれが一致してキリストのために働く同労者です。この一致がなければ教会の成長、また、私たちの霊的成長が阻まれてしまいます。このコリントの教会のように分裂がおこります。


 さらにパウロは、自分の中に知恵がある者だと思うものがいたら、知恵のある者となるために愚かになりなさい。と言っています。なぜなら、この世の知恵は神の御前では愚かであるからです。また、20節で。「主は知恵のある者の思い計ることがいかに空しいかを、知っておられる」とも書かれています。


 パウロが言いたかったことは、コリントの教会での派閥争いがまったく不要で愚かなことであるということです。このような争いの背景にあるのは、自分を他の人よりも賢いとみなす人間の欲望だということです。それ故にパウロは、自分を賢いと思う者は愚かになりなさいと言っているのです。さらに、だれも人間を誇ってはいけませんと述べています。私たちが誇ることのできる唯一のおかたは神さまだけです。パウロの厳しい教えが自分にも当てはまることが多々にあるので大変反省させられる思いです。自分には知恵があると思う誇りを捨てて、常に謙遜になっていくことが大切ではないでしょうか。私たちが誇りを捨てた時、謙遜になった時に神が成長させていただけると思います。


「あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものです。」―23節―

 何という感謝の御言葉でしょう。アーメンです。



 天の父なる神さま

 パウロの厳しい御言葉はすべて私自身に当てはまることです。どうぞ心から悔い改めることができますように導いてください。そして、自分の奥深いところにある誇りを捨て、謙遜への道へと歩ませてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン




 
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