- hccnichigo
- 2月8日
5章では、パウロがコリントの教会に対し、教会内にある罪を放置してはならないと厳しく戒めています。教会の兄弟姉妹、神の家族なわけですが、それは罪を見過ごすことではなく、聖さを保つために正しく対処する責任があることを教えています。
「あなたがたが誇っているのは、良くないことです。わずかなパン種が、こねた粉全体をふくらませることを、あなたがたは知らないのですか。」(6)
罪をそのままにすると広がり、その人だけでなく、教会全体に影響を及ぼします。私の教会でも、様々な罪深い問題があると思うのです。私自身も離婚を経験し、現在は婚姻関係にはないパートナーがいます。聖書には「妻も、夫を離縁して別の男に嫁ぐなら、姦淫を犯すのです。」と記されていますが(マルコ10:12)、私もまた罪の現実と向き合いながら神さまの前に立っています。
学びのクラスの時、牧師先生が、ある信徒から「この不倫、先生ならわかってくれると思った」と言われ、憤慨していたことを思い出しました。それは、罪を軽く扱い、正しい悔い改めを求めない態度が問題だったからでしょう。神さまは愛の方ですが、その愛は私たちが罪を持ったままでよいということではなく、悔い改めを通して聖められるように導く愛なのだと教えていただきました。
罪をみとめることは、私たちを裁くためではなく、キリストの赦しと回復へと導くためのものです。私自身も過去の過ちを悔い改めつつ、神の御前で新しくされたいと願います。
「外部の人たちは神がおさばきになります。『あなたがたの中からその悪い者を除き去りなさい。』」(13)
とても厳しい言葉ですが、パウロが求めているのは単なる裁きではなく、教会の聖さを保つための愛からくるものだと思うのです。罪を指摘することは、裁くことではなく、神の聖さへと導くことなのでしょう。私たちが互いに霊的に目を覚まし、聖さを求めることで、キリストの体である教会が成長していくのだと思います。
愛する天のお父さま
あなたの御前に罪を悔い改めます。私の過去の過ち、そして今なお抱えている罪を認めます。どうか、私の心を探り、あなたの御心に従う道へと導いてください。 教会があなたの聖さを保ち、互いに愛をもって罪から立ち返ることができるように助けてください。 イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。 アーメン

