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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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『信仰者のつまずき』


 マノアのセブンスデー教会の礼拝は土曜日、それがもともとの安息日であったので伝統的な安息日礼拝し、教会での愛餐会の食事は野菜と聞いていたのですが、テーブルに並んでいた数々のお皿には、確かに野菜食がメインでしたが、ミートボールやミートローフがあったのです。食べてみると確かにミートローフだったので、野菜食と聞いていたけれどもと、友人に尋ねると、あれはベジローフで、胡桃やシリアル Special Kブランドを素材にして仕上げて、味もミートローフとそっくりになると説明受けました。本当においしい野菜ベースの食事に驚いた経験があります。


 安息日を土曜日に守る事や豚肉をさけ菜食主義を守る人とそれに反して、食物規定を全く気にかけない者たち。どのように教会内の対立を避けて、平安を保つにはどうすべきかを伝えようとしている。何が大切な事なのかをこの8章では語ろうとしているのではないか、と考えました。


 この時代には、コリントの市場で売られている食物、ここに書かれている肉類には、偶像に捧げられていた動物の肉も混ざり合って売られていました。そして、ユダヤ教徒には、特に厳しい食物規定がありましたから、ユダヤ人として育ってきた方々がクリスチャンとして改宗された後も、この食物規定は、教会内でも大きな問題だったようです。


 8節「しかし、私たちを神の御前に立たせるのは食物ではありません。食べなくとも損にならないし、食べても得になりません。」 本当は何を食べたからと言って、それが主の御前で問題にされる事はないのですが、食べてはならないと堅く信じている者の前で、平気で肉を食べたり、飲んだりすることで、信仰をつまずかせることにならないように、気を使いなさいという現実的な信仰生活のあり方を伝えてくれています。13節「ですから、食物が私の兄弟をつまずかせるなら、兄弟をつまずかせないために、私は今後、決して肉を食べません。」なぜならこれら兄弟のためにもキリストが死んでくださった、愛しておられることをわすれてはならないからです。


 現代の正統派ユダヤ人も、大変厳格な食物規定、コルバン規定をもって生活しています。そして、食べ物だけでなく、例えば携帯電話もコルバン式携帯電話というのがあって、いわば電話の通話以外はできない、つまりスマートホンで、ウェブを見たり、映像を見ることはダメとしているそうです。大変窮屈な生活と私たちは思うのですが、もしも菜食主義を守っている人に対して、すべての物は神によって造られたので何を食べても良いとして、見下したりすることは、キリストの愛に対して罪を犯しているとまで、言い切っている使徒パウロの手紙です。

 

祈り

近頃は、色々な教会を尋ねる機会に恵まれておりますが、どうか自分の日常生活の中で、知り合って間もない、もしくは信仰をもって間もない方々をつまずかせるような事を、致しませんように、教会の皆さんも、他人をつまずかせる事がありませんように導き下さい。 アーメン 

文:森 宗孝


 

『二人が心を一つにし祈る』


 この7章は淫らな環境にあったコリント、それは現代でも文明の繁栄の影に、必ず起こる道徳の敗退に対する、独身伝道者パウロの結婚に対する助言の書だと思います。確かに、ギリシャ文明やローマ文明が最大に花咲いた時に、道徳の乱れ、特に性の乱れが起こったように、現代社会も、文明は発達したものの、世間では同じ問題に直面しているのではないでしょうか。


 ここで、パウロは結婚が人生のすべてとは言っておりません。7節「私が願うのは、すべての人が私のように独身であることです。しかし、一人ひとり神から与えられた賜物があるので、人それぞれの生き方があります。」と自分の考えを述べていますが、その背後には、終わりの日が迫っているから、主の事をまず考えなさいという思いの上での助言なので決して結婚を否定しているわけではありません。


 しかし、32〜34節抜粋「独身者は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を配る、しかし結婚した男は、どうすれば妻に喜ばれるか、妻は夫を喜ばせようと世のことに心を配る」ずいぶん上手に結婚した夫婦の心を言い当てていますが、パウロは同時に、主にある結婚を勧めているのです。


 それでは、主にある結婚とはどのようなものなのか。石と石が一緒になっても別々で、いずれ別れてしまいますが、水滴と水滴が一緒になると一つになるように、心をひとつにして主に祈る夫婦をパウロは描こうとしているのではないかと思うのです。


マタイ18章19節主イエスのことば「まことに、もう一度あなたがたに言います。あなたがたのうちの二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。」


 そして、パウロは、結婚について夫と妻が一体になることには、神の奥義があるのですとも書いているのです。エペソ5章31~32節「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体になるのである。」この奥義は偉大です。私は、キリストと教会を指して言っているのです。


 7章は、確かに結婚の中での問題、離婚について、独身について語っていますが、その根底には、果たして二人が心をひとつにして、主に祈ることができるのか、できないのかを基準にしなさいと言われているように思いました。


祈り

どうか夫婦として、心をひとつにして主に祈り続けることを毎日の優先とすることができますように、独身であれば主のみこころを願うことを優先できますように導き下さい。 アーメン 

文:森 宗孝


 

あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。」―20節―


 6章では、パウロが神の国を相続(神の国に入ること)することができることの厳しい教えが述べられています。とても重くなるようなことがずっしりと書かれています。その聖句のなかのいくつかは過去の自分自身にも覚えのあるものです。でも過去にどんな罪深く暗いものを持っていても、だれでもキリストにある者はみな新しく造られます。神が、キリストの血という代価を支払って、私たちを罪から解放してくださいましたから。今は、キリストにあって全く新たな歩みへと導いてくださっていることに心から感謝である。


 このようなかっては罪人だった自分がキリストによって買い取ってくださったお陰で光の道へと歩ませていただける恵みに心から感謝であります。ですからパウロは、自分のからだをもって「神の栄光を現しなさい。」と述べているのです。嬉しいことに、このパウロの言ったことにとても共感させられます。私自身も救われた時は、自分がなにをすれば「神の栄光を現す」ことができるのだろうかと祈った時にゴスペルフラがあたえられました。自分のからだをもって主のまえで踊らせていただける時こそ神の栄光を現していけるようになることではないだろうかと思えるようになりました。又、賛美をするとき、みことばの一つ一つを口ずさむときに神の栄光を現すことができるようにと思えるようになったのである。これらのことはすべて神の恵みに他はありません。


 「神の栄光を現す」ことは、だれにでも与えられている賜物によってできるのではないでしょうか。神は、私たちにそれを望まれておられると思います。それが神の喜ばれることだと思います。そういう確信をもった時に不思議とフラをするときに神のことを思って踊れば神の臨在の中に入らせていただけるのです。私たちクリスチャンの一人一人が神のために何かをすることによって「神の栄光を現す」ことになっていくのではないでしょうか。


 

 愛する天の父なる神さま。

きょうの御言葉を心から感謝します。このような罪びとのために代価を払って買い取ってくださってありがとうございます。あなたのこの無償な愛を私たちクリスチャンも他者に与えることができますように導いてください。そして、「神の栄光をあらわす。」ことができるように私たちを用いてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


 
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