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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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1節「私がキリストに倣う者であるように、あなたがたも私に倣う者でありなさい。」


3節「しかし、あなたがたに次のことを知ってほしいのです。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。」


 一見、男尊女卑と思われてもおかしくない聖句であるが、そうではない。この章が書かれた53AD頃、偶像礼拝があったり、男女の秩序はみだれ、教会員の一致がなかったらしい。だからパウロは神から造られた男女の本来あるべき姿を述べている。


 ちなみに、今でこそ「男女平等」を日本でも詠っているが、古来から男尊女卑は続いているようだ。世界193ヵ国のうち国連に属するのは146ヵ国である。146国のうち日本の「男女平等指数」は、かなり後位の118位である。一番、男女平等が徹底されているのが、アイスランド、フィンランドやノルウェーなど北欧3ヵ国が上位3を占める。


 この章は聖餐式についても述べている。


23節 「私は主から受けたことを、あなたがたに伝えました。すなわち、主イエスは渡される夜、パンを取り、


24節 感謝の祈りをささげた後それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」


25節 食事の後、同じように杯を取って言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。


 祈り: パウロはイエス様に仕え倣う者であった。イエス様は父である神様に仕え従った。私たちもイエス様に従う者でありたい。私たちは毎月聖餐式で、イエス様の身体を分けて頂き杯で血の契約を更新しているのだから。神様に対し従順な者であれるように、イエス様のお名前により祈ります。アーメン

           文: マッカーター・政子


P.S. 『神は愛なり』今日はバレンタイン・デー

 




 

「偶像礼拝を避けなさい。」―14節(抜粋)―


「だれでも、自分の利益を求めず、ほかの人の利益を求めなさい。」―24節ー


 10章は、イスラエルの民が失格者となったことが記されています。イスラエルの先祖はモーセにつくバプテスマを受け、みな、同じ霊的な食べ物や飲み物にあずかりました。だが、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。偶像礼拝をしたからです。このようなことからパウロはコリントの教会の人々に強く呼びかけているのです。偶像礼拝者になってはいけない、淫らなことを行うことのないように、キリストを試みることのないように、不平を言ってはいけないことで。これらのことは、戒めのためであり、世の終わりに望んでいる私たちへの教訓だと語っています。私たちにも言えることですね。


 市場で売っている肉はどれでも食べていいこと、なぜなら地とそこに満ちているものは、主のものだからです、とパウロは語っています。また、信仰のないものに食事を招待されたら、自分の前に出されたものは良心の問題を問うことをせずに食べなさい、とも述べています。しかし、人が、「これは偶像に献げた肉です。」と言うならその人の良心のために食べてはいけないと言っています。これが、パウロが24節で述べていることである。

「だれでも、自分の利益を求めず、ほかの人の利益を求めなさい。」

 これが神の栄光をあらわす生活だと語るのであります。


 お盆の時の思い出が蘇ります。その時には仏壇にお供えされたものはどれもおいしそうで豪華な食べ物が所狭しと並べられています。供養が済むとその食べ物は、まず家の主そして長男が先に食べます。その後に女、子供たちが食べます。偶像に献げられたものということを知らずにみんなで美味しく食べたことがあります。そのころは良心とかはまるっきり考えられませんでした。美味しいものをお腹いっぱい食べられるのはお盆とお正月だけだったからです。クリスチャンになった今でも、実家に帰ったときに仏壇に献げられた肉を信仰のない兄弟たちに目の前に出された時には食べます。それは、みんなが心を込めて作ってくれたごちそうだからです。これこそパウロがいう、「ほかの人の利益を求めなさい。」ということにつながるのではないでしょうか。


 

 主の御名をほめたたえます。今日の御言葉を心より感謝します。私も自分の利益を求めずに他者の利益を求めていくことができる道へと歩ませてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


 

「私は、誰に対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷になりました。ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。律法の下にある人たちには、―私自身は律法の下にはいませんがー 律法の下にある者のようになりました。律法の下にある人たちを獲得するためです。ーーーー弱い人たちには、弱い者になりました。弱い人たちを獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。何とかして、何人かでも救うためです。」(19~22)


 パウロは、与えられた自由を伝道のために捧げました。それが彼の自由でした。相手のようになる、それは相手の状況、状態に寄り添うことを意味しています。「弱い人たち」に対して、助けるために強くなったのではなく「弱い者になりました」と言うのです。相手を裁き、否定することではなく、まず相手の人格、歴史、文化を尊重し、耳を傾け、その人を大切に扱うことなのです。伝道は、相手を愛することなのです。伝道という名のもとに、あなたのためにという名分のもと、相手の人格を否定することがあってはならないのです。そこに愛はないからです。愛のない所に神は見えません。なぜなら神は愛だからです。

 このパウロのこの姿勢はまさにイエス・キリストのお姿です。イエスは、罪人ではないのに、罪人のようになって十字架にかかりました。パウロの内には、キリストの心が満ち満ちているのです。


 私もイエスの心が欲しいです。その心が私の心となり、私の内に満ち満ちますように。そのために、もっとイエスの心を知りたいと心から願います。


  

 天の父なる神さま

 イエスさま、あなたの心をください。私の心を、あなたの愛で満たしてください。その心をもって宣教に励むことができますように。出会う一人ひとりの存在を大切にし、あなたを証することができますように。どうか私を聖霊に満たしてください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン                                             文:関真士


 
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