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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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『真の信徒とは』


 パウロは愛するコリント教会の信徒へ、問題の多い教会でパウロ自身の権威を疑ったり、色々な異端の考えを持つ者が入ってきて、混乱している信徒たちに続けて語りかけています。そしてこれは現代の我々、コリント時代以上に異端の考え方がはびこる今の時代の信徒にも語りかけているのではないでしょうか。コリント教会には、パウロは本当の使徒ではない、主イエスの12弟子ではなかったからだと、今でいえば牧師の資質を疑って別の方向に引っ張ろうとする群れもいたようです。


 そのような反対者たちに惑わされないように、パウロは自分が受けた啓示を説明しています。 ひとつは自分自身にある肉体のとげ、これがなんだったのか学者の意見が分かれていますが、明らかに人が見ても問題がある身体の欠陥があったのでしょう。しかしこれも、他の人を癒したりできるのに、自分自身のこのとげは、高慢にならないように、与えられているのだと弁明しています。そして彼自身の体験としか思われない体験、パウロは仮死状態だったのか、第三の天、パラダイスに引き上げられ、そこの様子を見て知っていると言うのです。これまで、人が死んで天国に行ってその様子を見てから、もどってきた人はいませんが、パウロはこのパラダイスを知っているが人間には語る事が許されていないことばを聞いてきたと宣言しています。おそらく、この事が起こったのは、石打ちの刑にあった時、それhが使徒の働き14章19節の事件の時にパウロはパラダイスに上ったのではないかと言われています。

ところが、アンティオキアとイコニアからユダヤ人たちがやって来て群衆を抱き込み、パウロを石打ちにした。彼らはパウロが死んだものと思って、町の外に引きずり出した。」この石打ちの刑は、残酷なもので、町の群衆を含めた大勢が石を投げつけたのですから、パウロがこの時点で実際に亡くなって天に上ったとしても、おかしくありません。当然、皆は彼が死んだと思ったのでしょう。しかし、町の外に引きずり出されたパウロを弟子達が囲んでいると、パウロは立ち上がって、なんと、また石打ちされた町に入って行ったというのです。よみがえりを経験したのでしょう。この時にパラダイスに昇ったのではないでしょうか。


 そして、そのような経験を基に、有名な10節があるのです。「ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱いときにころ、私は強いからです。」なんというパウロの証しでしょう。死に至るまでの迫害を受け、第三の天に上ってから、帰ってきた、これはすべてキリストのためであった、それが私 パウロの真の信徒である啓示であると言っています。


19節「あなたがたは、私たちがあなたがたに対して自己弁護をしているのだと、前からずっと思っていましたか。私は神の御前で、キリストにあって語っているのです。愛する者たち、すべてはあなたがたが成長するためなのです。」


祈り

 パウロのコリント教会への愛、現代の問題多き教会への力強いメッセージに感謝いたします。どうか私たちもキリストのゆえに弱い時に、もっとも強い者となることができますように。 アーメン 

文:森 宗孝


 

『もし誇る必要があるなら、私は自分の弱さのことを誇ります。』


 コリント人への手紙第二11章では、コリントの教会に偽教師が入っているのでパウロは心配になって、コリントの人々に厳しく、熱心にキリストの福音から離れてはいけないことを語るのでした。このことはとても危険なことです。それ故に、パウロは自分が愚かになって、偽教師たちの自分に向けられた批判に答えなければいけないと思ったのです。そして、答える前に1節で、「私の少しばかりの愚かさを我慢してほしいと思います。」と言ったのである。パウロのコリント教会の人々への愛の深さが伝わってくるようです。


 パウロは、10章17節では、「誇る者は主を誇れ。」と語っています。そして、11章30節では「もし誇る必要があるなら、私は自分の弱さのことを誇ります。」と語っています。自分の弱さを誇りとすることは、勇気がいると思います。自分の弱さが誇りとなっていくことによって私たちのクリスチャンとしての信仰が深まっていくのではないでしょうか。


 今は天に召されたあるクリスチャンの先輩が語られていたことがこの御言葉と重なってきました。その方は、「自分は、クリスチャンになってから自分の弱さを堂々と言えるようになった。なぜなら自分には誇るものがなにもないことを知ったから。そして、誇ることができるお方はただ唯一主だけであることを知ったから。クルスチャンになる以前は、心の内ではいつも自分を誇っていた。人に自分の弱さをみせないようにしてきた。そういうことをしている自分が知らず、知らずに疲れを覚えるようになった。そして、いつも高い壁にぶつかっては先に進むことができないことの繰り返しだった。しかし、クリスチャンになってからは、特に非クリスチャンと話す時には喜んで自分の弱さを語ることができた。大きな恵みだった。」と満面な笑顔で語っておられたことがとても印象的でした。私たちも自分の弱さを誇り、又、誇ることのできるお方は、ただ唯一主だけであるということを覚えていくことだと思います。



 ハレルヤ!主の御名をほめたたえます。

私たちが誇ることのできる唯一の主よ、すべてのことに感謝します。日々自分たちの弱さを誇っていける信仰の道へと歩むことができますように導いてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


 

「あなたがたは、うわべのことだけを見ています。もし自分はキリストに属するものだと確信している人がいるなら、その人は、自分がキリストに属しているように、私たちもキリストに属しているということを、もう一度よく考えなさい。」7節


 パウロは「あなたがたはうわべだけを見ています」と語っています。人はしばしば見た目や表面的なこと、世間的な評価に囚われがちです。神さまは人の誠実さや愛の深さ、そして静かに目立たずに愛を実践している方々を見ておられるのに、私の目にうつるのは社会的地位や財産などを持つ人が成功者と見てしまうことがたびたびあります。だから無意識に人と自分を比べてしまうことがあると思います。反省します。


 また、ガラテヤの学びのクラスに参加する中で、母と同じ年代や少し年上の方々の信仰の姿勢を見て、「母はどうしてできないのだろうか?」と心の中で比べてしまっている自分がいました。そのままの母を受け入れているつもりでいても、実は私自身が肉の考えで判断していたのです。


 母は認知症を患っており、その介護をしている中で、思うように信仰を持てない母の姿と、学びの場で熱心に聖書を学ぶ方々の姿を比べてしまっていました。しかし、神さまは母の状況や心の内をすべてご存じであり、私のものさしで計るべきではないと気づかされました。この気づきを通して、神さまの基準に立ち、人を評価するのではなく、神さまの目で愛することの大切さを学びました。


「私たちは限度を超えて誇りません。神が私たちに割り当ててくださった限度の内で、あなたがたのところにまで行ったことについて、私たちは誇るのです。」13節


 12節以降、人と自分を比べて誇ることの愚かさについて語られています。神さまは、それぞれに与えられた領域の中で生きることを望んでおられます。私が母の介護をしていることも、私自身の努力や犠牲によるものではなく、神さまが許され、導かれていることです。

それを「私がしている」と思うと、おこがましさが生まれ、比較や不満に囚われてしまいます。しかし、本当の意味で私が母を支えているのではなく、神さまが母を愛し、私を通して働かれているのだと気づきました。


 Ⅰサムエル記16:7でも「人はうわべを見るが、主は心を見る」と語られています。私たちがどのように見られるかではなく、どのような信仰を持っているかが大切なのです。神さまが与えられた領域の中で、謙遜に、感謝をもって生きる者でありたいと願います。



愛する天のお父さま

 私たちが人の評価や外見ではなく、あなたの目にかなう心を持つことができますように。周囲と比較するのではなく、あなたがご覧になる心の在り方を大切にする者としてください。私たちの目を開き、あなたの真理を見つめる者としてください。そして、与えられた領域の中で、へりくだりつつあなたの愛を実践できますように。

 イエス キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン


 
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