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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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 ヨブ記5章もテマン人エリファズの話しが続きます。叱咤激励のように思えたり、自分を誇っているような、まるでヨブを上から目線のような話し方がみうけられます。

人が痛み、苦しんでいる時に私たちがどういうふうにしてその人たちに接していくことができるかが語られてきます。


 エリファズの語る御言葉には確かに納得させられるところもあります。


「神は、測り知れない大いなることをなし、数えきれない寄しいみわざを行われる。」9節


「神は貧しい者を剣から、剣の刃から、強い者の手から救われる。」15節


「ああ、幸いなことよ、神が叱責するその人は、だから、全能者の訓戒を拒んではならない。神は傷つけるが、その傷を包み、打ち砕くが、御手で癒してくださるからだ」17節~18節


 自分がヨブの立場になった時に尊敬する先輩からこのような御言葉を言われた時に、果たして、受け入れられるかどうかと問われた時に、それは不可能だと思います。かえって自分の心がもっと傷つけられ、心が閉ざされてしまうと思います。励ましのことばが時には人を傷つける剣になってしまうこともあると詩編55:21では語っています。

 

「その口は よどみなく語るが 心には戦いがある。

 そのことばは 油よりも滑らかだが それは抜き身の剣である。」詩編55:21


 人生で誰にでも必ず起こりうる、苦しみ、悲しみに出会った人に、私たちがどうすればそのようなことに共感していくことができるかが問われるところだと思います。ただことば数が多ければいいということではないと思います。感謝なことに私たちには祈りがあります。その人のたみに共に祈り心からその人の苦しみ、悲しみを聞いて寄り添っていくことではないでしょうか。


「あなたがたのうちの二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。」マタイの福音書18:19


「二人が三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」マタイの福音書18:20


 

 主の皆を心よりほめたたえます。天の父なる神様。今日の御言葉を感謝します。人を励ます時に自分がその状況に置かれた時のことを思ってその人のために祈っていくことができますように導いてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


 

 ヨブは想像を絶する苦しみの中にありました。財産を失い(ヨブ記1:13-17)、子どもたちを失い(ヨブ記1:18-19)、さらに身体には重い病が襲いかかりました(ヨブ記2:7-8)。まさに三重苦ともいえる状況です。そんな中でヨブにエリファズが口を開きます。しかし、その言葉はヨブを慰めるどころか、さらに心を痛めるものでした。


  エリファズは「さあ、思い出せ。だれか、潔白なのに滅びた者があるか。どこに、真っ直ぐなのに絶たれた者があるか。」(7節)と、ヨブの苦しみの原因が彼自身の罪にあるのではないかと問います。そして「私の見てきたところでは、不法を耕して害悪を蒔く者が、自らそれらを刈り取るのだ。」(8節)というエリファズの考えから、苦しみは何かしらの報いだと結論づけました。


 ヨブのように、心の葛藤や信仰の試練は私たちの日々の生活の中にもあります。辛い時、すでに弱っている心に「あなたが悪いのでは?」と言われたら、どれほど傷つくでしょうか。時には慰めのつもりでかけられた言葉が、相手の心に深い傷を残してしまうことがあります。エリファズの言葉は、まさに「傷口に塩を塗る」ようなものでした。


例えば、


「あなたのためを思って言うけど、もっと努力すればよかったんじゃない?」


「信仰があるなら、こんなことで落ち込まないはず。」


「神様は正しいから、きっとあなたに何か問題や理由があるんだよ。」


 こういった言葉は、良かれと思い励ましのつもりでも、苦しむ人をさらに傷つけてしまうことがあ ります。

 苦しんでいる人に対して、正しさを押し付けるのではなく、ただ共にいること、それが神さまの愛を伝える方法の一つなのかと思います。


 もし自分がヨブの立場だったらどうでしょうか。財産も家族も健康も失い、友人からは責められる。私なら打ちのめされて、神さまを慕い続けることができるかどうかわかりません。しかし、ヨブはその中でも神さまを求め続けました。私たちも、どんなに辛い時でも神さまに心を向けることができるように祈り求めたいものです。


愛する天のお父さま 試練の中であなたを信じ続ける力をください。また、苦しんでいる人に対して、自分の考えを押し付けるのではなく、寄り添い、愛をもって支えることができるように導いてください。私の言葉が人を傷つけるものではなく、励ましと慰めとなるように、あなたの知恵を与えてください。

 イエス キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン


 

 ヨブは、神を呪うかわりに、自分の生まれた日を呪うようになります。神をのろって死になさいと勧めた妻に対しては、毅然として、信仰的な姿を崩さなかったヨブも、言葉もなく、ヨブの苦しみをそのまま受け止める友人たちの前に、ついに、悲痛にみまわれ、自分の心情をを吐露せざるをえなかったのでしょうか?


 私たちの心には、なぜという疑問が駆け巡り、答えられないと、ますます混迷に陥ってしまいます。ヨブのように、私たちは、なぜという疑問や呪いを自分の糧として生きる罠に気付くことが出来るでしょうか? 24節で、「まことに、食物の代わりに嘆きが私に来て、私のうめきは水のようにあふれ出る。」と嘆いています。


 イエス様は、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。」言われました。(マタイ4:4)悲痛に陥った時こそ、神のことばを、私たちの心の中に思いめぐらせ、嘆きを咀嚼するのではなく、神のことばを繰り返し食べていけます。人は神のことばによって希望を持ち、神のことばによって生きる力をあたえられます。それでも、私たちは傷ついた時には、どうしても、神のことばを忘れやすく、神のことばに背を向けてしまいがちです。苦難の日にこそ、私たちは主をまず求め、闇にあるときにこそ、神の恵みの日々を思い起こし、神をたたえた日々を思い起こし、嘆きでもなく、うめきでもない、涙でもない、神のことばをこそ、私たちの心の中に思いめぐらせていきましょう。


 信仰を持つということは、実に神の約束に生きることに他ならず、望み得ない時に、神に望みを抱いて生きることではないでしょうか。


主の祈り:神を呪うかわりに、自分の生まれた日を呪う程に、うちひしがれたヨブの悲痛はいかばかりでしょうか?すべてを全能の神に委ねることが出来るように神様助けてください。あわれんでください。神様の御言葉に常に立ち返ることができる選択肢を選べる自由が与えられていることを感謝します。 アーメン


 
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