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2026年6月6日 エゼキエル書25章

hccnichigo
6月6日
読了時間: 2分

 25章では、アンモン人、モアブ、エドム、ペリシテ人など、イスラエルの周囲の国々への裁きが語られています。 彼らは、エルサレムの滅びを見て悲しむのではなく、むしろ喜び、嘲り、敵意を抱き続けていました。


 特に心に残ったのは、アンモン人の「あはは」という態度です。


 「あなたはアンモン人に言え。『神である主のことばを聞け。神である主はこう言われる。わたしの聖所が冒されたとき、イスラエルの地が荒れ果てたとき、ユダの家が捕囚となって行ったとき、おまえは、あはは、と言って嘲った。』」3節


 これは単なる笑いではなく、これ見たことか、当然の報いだというような、人の苦しみを見下す心だったのではないかと思います。


 この箇所を読むと、神さまの光に照らされ、自分の内側を見せられます。自分を傷つけた人、敵意を向けてきた人、理不尽なことをした相手が失敗した時、果たして私は本当に憐れむことができるだろうかと思わされます。私にも少なからず、アンモン人のように嘲る心があると思います。

 神さまは、そのような表面的には見えない心まで見ておられるのかと思うと、隠れたい気持ちになります。


 そんな思いでこのディボーションを書いていた時、ふと、私が持っている140枚入りの御言葉カードが目に入りました。そして、ちょうど一番上にあったカードの御言葉が、「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5:44)だったのです。

 あまりにも今の自分に対して語られているようで、驚きました。やはり神さまは、すべてをご存じで、私の欠けや弱さを見ておられ、その上で御言葉を通して語ってくださるのだと思わされました。


 神さまの御業は、本当にどこまでもGod's perfect timing だと感じます。


 イエス様は十字架の上で、自分を苦しめる者たちのために、「父よ、彼らをお赦しください」と祈られましたが、私はまだそこまで愛することはできません。けれど、自分の中にある浅ましさや醜さを隠さず、正直に主の前に出たいと思います。


愛する天のお父さま

 私は、傷ついている人のためには祈れても、自分を傷つけた相手のためには、なかなか祈ることができません。そのような私の心を、十字架の上で赦しを祈られたイエス様のように、少しずつ私の内にも育ててください。裁く者ではなく、憐れむ者へ、そして、憎しみを握り続けるのではなく、あなたに委ねる者へと導いてください。 

 イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン


 
 
 

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