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2026年5月12日 ペテロの手紙第二3章

  • hccnichigo
  • 5月12日
  • 読了時間: 2分

『信仰は生命』


 ペテロは3章の終わりに、救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。と語っています。私たちは主イエスの霊である、聖霊が宿り、信仰において、完成したわけではなく、成長中の者であることが記されています。その成長中である信徒をどのように導くのか、特に使徒ペテロはエルサレム教会の基盤となって、ユダヤ人クリスチャンを教会を通じて育て上げることに重点をおいていたのに比べて、パウロは異邦人伝道を使命としていたわけです。 ペテロの後輩であるパウロ観が実に的を得て描かれています。16節には、愛する兄弟パウロとしながらも、パウロの手紙、その中には理解しにくいところがあります。とパウロの神学的な伝道のことばは、ペテロにとっても分かりずらい、ましては信者になったばかりの者には、理解しにくいと使徒ペテロも思っていたのですね。


 そうして、終わりの時、主の来臨の時には不敬虔な者のさばきとなり、火によってそのさばきがくだるとペテロも確認しています、しかしその主の日が、なかなかすぐに訪れないのは、すべての人が悔い改めて、主を信じることで滅びることがないようにと主は忍耐して主の日を遅らせている、主にとっては1日は千年のようであり、千年は一日のように、永遠の神の時間の観念は、私たちのような人間の感覚とは全く異なっていることもペテロは示しながら、終わりの日には、あなたがたは、馬鹿みたいに、本当に再臨を信じているのかと嘲笑う者たちが現れ、自分達の欲望に従い、主の戒めを馬鹿にする者たちが多く現れることも預言しているのです。


 しかし、13節「私たちは、神の約束にしたがって、義の宿る新しい天と新しい地を待ち望んでいます。」ここに私たちクリスチャンの生きた望み、主イエスの約束である永遠の身体が与えられる希望があるのです。主イエスも主の日は、盗人のようにやってくる。予期しない形で訪れるので、成長中の私たちは、聖霊を切らすことことなく、主人がいつ戻って来られても準備をしておく召使いのように、神の日が来るのを待ち望みなさい、その間に主のみことばを食べ、成長しなさいと言っているのです。


祈り

主の来臨は、必ず起こります。どうか主イエスとの再会を待ちながらも、プールのジャンプ台のように、この世で準備をしておきながら、主がおいでになられた時に、彼の胸元に飛び込んでゆこうではありませんか。アーメン

文:森 宗孝


 
 
 

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