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2026年3月27日 エレミヤ書19章

  • hccnichigo
  • 3月27日
  • 読了時間: 3分

「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。見よ、私はこの都と、それに属するすべての町々に、わたしが告げたすべての災いをもたらす。彼らはうなじを固くし、わたしの言葉に聞き従おうとしなかったからだ。」(エレミヤ書19章15節)


 エルサレムの住民とその指導者たちの不信仰の罪は、大変甚だしいものでした。カナン人の間には土着の偶像礼拝があって、当時その礼拝のために親たちが生ける子供を供え物としてささげていたそうです。そういう偶像礼拝はイスラエルの民には堅く禁じられていました。しかしその偶像礼拝はソロモンの愛した外国の女によってイスラエルに忍び込み、公然と実施されるようになり、それはエルサレムをそれまでとは全く違った見知らぬ所としてしまいました。それがヨシュア王の時代にはそのようなことが二度と行なわれないようにと宗教改革が実施されました。ところがその後エホヤキム王の時代にはこの偶像礼拝は復活しました。エレミヤはこの二人の王の時代に預言者として、主の御こころをイスラエルの民に伝えようとしました。


 この章でも、預言者エレミヤを通して、主はエルサレムへのさばきはもう最終的なものであり、取り返しのできないものであることを伝えています。粘土でできた陶器も湿気のあるうちは作り直すことはできますが、一旦乾燥させ炉で焼かれた陶器は、失敗したと気づいても決して作り直すことはできません、ただ砕くのみです。エレミヤは主が命じられたとおり、土の焼き物のびんを買って、それを民衆の前で砕きました。その土のびんは、当時、何度主から命じられても、悔い改めて偶像礼拝を捨てて主のもとに帰ろうとはしない霊的に頑ななイスラエルの民を物的に象徴するものだったのです。その末路は砕かれて捨てられるのみでした。


 イエスの十字架の贖いを信じる者でも、人はみな、今も昔も、イエス以前の時代もイエスの十字架以後の時代も、やり直して正しく生きようと望みながらも、知らず知らずのうちに罪を犯し続けるという弱いものです。旧約の時代には罪びとは炉で焼かれた陶器のように、贖われることなく砕かれるだけでした。しかしイエスの十字架以降に生きる私たちは、罪深く弱い私たちが主の前に来て悔い改める時、罪赦され、心を入れ替えて主の御言葉に沿って生きることをゆるしてくださいます。一度だけではありません、何度も何度も。イエスも言われた通りです。

そのとき、ペテロがみもとに来て言った。『兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。』イエスは言われた。『七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。』(マタイ18章21~22節)

 ある人はこれを「無限の赦し」と呼んでいます。大変感謝なことです。


 愛する天のお父さま、今日のみことばを感謝します。主よ、あなたのことをまだ知らない、そして信ずることのできない多くの方々が、あなたが望んでおられる生き方を歩まないで、いつの間にか罪を犯すような時があります。それでもあなたは土の陶器のように砕かないで、またやり直すことを赦して下さるあなたの恵み深い愛と忍耐と寛容とお導きを、その方たちが知ることできるように、またそのために私たち信者が少しでもお役に立てるようお導きください。もう既に神の子とされた私たちですら、時にはあなたから離れてしまいそうなことがあります。そういう私たちを主よ、あなたのもとに引き戻してください。心より感謝しつつ、イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


 
 
 

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