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2025年9月23日 詩篇第141篇

  • hccnichigo
  • 2025年9月23日
  • 読了時間: 3分

『信仰による祈り』


 神のみこころを知るためには、聖書のみことばを読むことから始まりますが、その神とつながるためには、私たちは祈りで応答することになります。しかし、例えば、1日3度の食事ができない時、とても我慢できないほど、腹が減ってしまいます。ところが食事よいも肝心な祈りに関しては、自分が、忙しくて、1日の祈りを忘れても、腹が減って我慢できないような気持ちにはならない自分であることを後で気づくと、自分の祈りの熱心さが足りないことを悔い改めてしまいます。


 それに比べて、この詩を歌ったダビデが、苦難にあって、命からがら逃げ回る中で、彼を支えたのは、主への祈りでした。単に願い事をする祈りではなく、神への感謝、神を讃える祈りも忘れてはいませんでした。1節「主よ 私はあなたを呼び求めています」しかし、この祈りのダビデをもってしても、この世の誘惑には勝てなかったことが描かれています。ダビデはウリヤの妻バテ・シェバと姦淫の罪を犯してしまいました。そして、誰にも知られていないように策略したにも関わらず、この事を預言者ナタンによって告発されたのです。(サムエル記II 12章)


 王として君臨していたダビデの立場を考えれば、訴えてきたナタンを捕獲することも簡単にできたことでしょう。しかし、ダビデは祈りの人でした、自分の犯した罪に心を痛めていたのだろうと思います。詩篇に戻って5節a「正しい人が真実の愛をもって私を打ち 頭に注ぐ油で私を戒めてくれますように。 私の頭がそれを拒まないようにしてください。」この言葉が、現実となってナタンによってダビデが打たれた時に、確かにダビデはすぐに、その場で、私は主の前に罪ある者ですと罪を認めた。正しい人が、自分を打ったことで悔い改めたのですが、主は罪をそのまま赦される方ではありません。ダビデの最初の息子は打たれ、ダビデの家族はやがて王権を争って分裂し、ダビデの上にわざわいが下されたのでした。


 私たちの愛する主は、たとえ罪を犯して、主の道から外れても、悔い改めと祈りによって、罪の赦しと救いの道を用意して下さっています。

8節「私の主 神よ まことに 私の目はあなたに向いています。」 

 ダビデは罪の中の泥沼の中から、主を見上げる事を忘れてはいませんでした。


祈り

どうか私たちも、不法を行う者の落とし穴に落ちませんように、私たちを守って下さい。 誘惑に弱い自分達ですが、祈りを忘れずに、落とし穴にもしも落ちてしまったとしても、正しい人が真実の愛をもって、私たちを打ちます時には、素直に悔い改めができますように。 アーメン 

文:森 宗孝


 
 
 

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