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2025年7月1日 詩篇第58篇

  • hccnichigo
  • 2025年7月1日
  • 読了時間: 3分

『正しい裁きを』


 私たちの住む、この世を見渡すとこのダビデのように、神の正義は打ち破れて、社会の倫理が神から遠く離れてしまった、義はどこにあるのかと嘆いてします。新聞にはおぞましい事件で満ちていて、この世の力ある者が、本当に神の義にそって人の子たちを公正に裁いているのかと次々に疑問がでてしまいます。この58篇の作者 ダビデもサウル王から逃れながら、このような社会の悪に、主が懲らしめの裁きで打ち砕いてくださいと願っているのです。やがてダビデ自身も姦淫の罪に染まってしまうわけですが、この詩篇の段階では正義感に燃えていたのでしょう。


 しかし、不思議なのは、58篇の初めに、指揮者のために。「滅ぼすな」の調べで、ダビデによる。とある「滅ぼすな」これは57篇も一緒なのですが、この世の不正を裁いて、打ち倒すことを願っているのに、「滅ぼすな」の調べとは全く矛盾している題名のように見えるのです。


 10節「正しい人は、復讐を見て喜び その足を 悪しき者の血で洗う」すざましい

祈りというよりも呪いのように、感じてしまいます。怒りに満ちた呪いのことばであったのでしょう。この世の正義はどこにあるのか、と叫んでいるようです。 私たちも自分の身に、このように社会の倫理が神から遠く離れてしまったと思う経験はありませんか。


 東京の一人暮らしの友人は、自分自身がかつかつの年金生活にも関わらず、ふとしたことがきっかけで知り合った、三人の母子家庭、母親は病気がちで社会福祉を受けておられる家庭を、助けようと、時には重たいからといって米や水を届けたり、お金も多少送ってたりしていたのです。しかしながら、数年後、この家族への市の査定があって、お金の入金があったことが理由で、福祉を打ち切られた上に、今までの公正福祉で支払われたお金の返金を求められてしまいました。この友人は、なんとか助けようとした行為が裏目に出てしまって、悲しむと同時に、社会が公正を欠いていると怒っています。


 ダビデの怒りは、自分自身の命にも関わるものでしたので、比較することはできませんが、神に向かって、この世の不正を裁いてくださいと訴えているわけですが、やはり、気になるのは「滅ぼすな」の一言ですね。


 もしかしたら、最後の節11節「まことに 正しい人には報いがある。まことに さばく神が地におられる。」とまだ目の前の社会の悪は裁かれているわけではなかったのに、自分の心では、すでに世をさばく神が地におられることを自覚したのかもしれません。


祈り


私たちも、この現世においては、不正がはびこり、ほんとうに義によっての公正な裁きができるのだろうかと思ってしまうことが多くなるこの頃ですが、自分もその罪人の一人であって、主なる神がその罪を御子イエスに負わせて、今では私たちと共におられることに感謝が捧げられますように導きください。 アーメン

文:森 宗孝


 
 
 

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