2025年6月27日 詩篇第53篇
- hccnichigo
- 6月27日
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詩篇53篇と詩篇14篇とはほとんど同じです。しかし、今日はこれら二つの詩篇には微妙な違いがあることを見てみましょう。
まず14篇の著者は神を「主」と呼び求めています。53篇では「神」です。ヘブル語では「ヤ―ウエイ」と「エロヒーム」の違いです。聖書の中で「神」とは無限の永遠の創造主を意味していて、「主」とは、この同じ神との個人的な関係の中で呼びかける名前だそうです。それは、14篇はダビデが私的に神への称賛と感謝を歌ったもので、53篇は同じものを公的に、多くの人々に伝えるため読むことを目的とした詩であるということだそうです。
最近私たちは礼拝の中で「主のまことはくしきかな」という歌を賛美しましたが、同じ歌でも、古い題名の「父の神の真実は」よりは、少しだけ神が自分の近くに感じられました。
53篇は、14篇より後の時代を反映するため、幾分か修正されたものだそうです。14篇はまだ起こっていないことを願い求める祈りであるのに対して、53篇はそれがもう既に起こったもの、経験したものとして、具体的で結果的に歌われています。
特に5節でそれが明白にわかります。愚か者が単に「恐れた」のではなく、「神があなたに陣を張る者の骨を散らされた。あなたは彼らを辱めた。神が彼らを捨てられた」とあります。即ち「神はいない」という愚か者に対しての神の報復が事実として下されたのです。
即ち、信仰とは神への単なる願望だけではないということ。祈り求めることは、神の御力によって、必ずやがて具体的な結果として確かに経験できるまでに至ると信じることだと思います。「ああ、イスラエルの救いがシオンから来るように」という神への切なる願いが、確かに、「神が、あなたに対して陣を張る者の骨をまき散らされたからだ。あなたは彼らを辱めた。それは神が彼らを捨てられたからだ」と勝利を宣言させてくださるのです。へブル書11章1節の聖句「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」を思い出させられます。そしてマルコの11章24節でイエス様が言われたことをも思い出させてくれます。「だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」
愛する天のお父さま、拙い私たちですけれども、あなたを「主」と呼んで、私たちの願いを祈り求めることのできるこの特権を、またそれを経験できる事実として与えてくださるあなたの恵みと憐みを感謝します。アーメン
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