2025年6月24日 詩篇第50篇
- hccnichigo
- 6月24日
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『神を忘れる者』
神の怒り、4節「神は上なる天を、また地を呼び集められる。ご自分の民をさばくために。」そして感謝を忘れた民に告げられている忠告は、15節「苦難の日に わたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出し あなたはわたしをあがめる。」
これらのことばは、アブラハム、ヨセフ、ヤコブの神であられる、父なる神が、ご自分を忘れたかのように振る舞っているイスラエルの民に向かって、神を忘れる者への怒りを示されている。しかし、このみことばは、必ずしも大昔のイスラエルの民だけに向けられたことばではない。現在のイスラエルも神がこの世に送られた御子イエスを信じることなく、背を向けていることに対してもお怒りになっているのではないかと思うのです。
ヨハネ福音書1章10〜11節「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。」と主イエスを受け入れられなかったイスラエルの民のことを示されています。
しかし、不思議なのは、創造主であり、大能の力をお持ちの御子イエス、救い主として来られたのに、なぜイスラエルの民は、その救いの手から漏れてしまったのかと単純に思いませんか。神が救いに来たのに、なぜ達成されなかったのか?どうして拒否されることになるのに、主イエスは来られたのでしょうか?
異邦人伝道に導かれたパウロは、それは異邦人のすべてに福音が広がってゆき、やがてイスラエルの民も、悔い改めて、信じる者すべてが救われるチャンスが与えられ得るためであると説いているわけですが、パウロだけが、そう主張しているわけではなく、旧約聖書の預言者も語っていることを覚えましょう。
まずは異邦人について、イザヤ書65章1節「わたしを尋ねかかった者たちに、わたしは尋ね求められ、わたしを探さなかった者たちに、わたしは見出された。わたしの名を呼び求めなかった国民に向かって、『わたしはここだ、わたしはここだ』と言った。」イスラエル民族以外の異邦人に神が尋ね求められると預言されています。
ゼカリヤ書12章10節「わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと嘆願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見て、ひとり子を失って嘆くかのように、その者のために嘆き、長子を失って激しく泣くかのように、その者のために激しく泣く。」
ここでは、突き刺された十字架のイエスを示しており、わたしを仰ぎ見てとありますから、御子イエス、神であられる主のことをさし示しています。
主イエス自身が、やがてイスラエルの民が、主を呼び求める時に、もう一度来られるとも約束されています。ご自分の民が、主イエスを受け入れなかったことで、逆にイエスの福音が世界中に、迫害を受けて世界中に散っていった、弟子達をはじめ教会員によって広められました、世界伝道によって多くの人が救われるためです、そしてやがてイスラエルの民の民族的な悔い改めが起こった時に、苦難の日にわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出し、あなたはわたしをあがめる。神の奥義の深さとそれに関わる年月はあまりにも深いものでした。
祈り
どうか神が選ばれた民である、イスラエル民族が、主イエスを呼び求める日が、1日も早く到来しますように! 主イエスの再臨を待ち望みます。 アーメン
文: 森 宗孝
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