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2025年6月23日 詩篇第49篇

  • hccnichigo
  • 2025年6月23日
  • 読了時間: 2分

『人は死ぬとき 何一つ持って行くことはできない』


 自分自身が72歳になって、徐々に棺桶に近づいているせいか、この17節のことばに、確かにそうだと頷いてしまいました。人が生まれる時には、おぎゃ〜と言って息を吸って生まれてきますが、死ぬ時には、逆に大きく息を吐いて死ぬと聞いたことがあります。まるで神の息吹を吸って生を受け、吐いて死に至る、確かにそうだなとも思いました。しかし、その死を考える時に、ふと本当に何一つ持ってゆくことが出来ないのだろうかと思い悩みます。 もしかしたら、確かにこの詩のように、何も自分の周りの物は持って行けないかもしれないけれども、自分の心に流れる賛美と信仰は持って行けるのではないかとも思うのですが、どうでしょう。


 この世で贅沢三昧の生活をしている、一見豊かに恵まれた人もおられますし、明日の住む所も、自分の健康も、お金もない人もおられます。しかし、誰一人として、いつまでも生きられる者はいません。だれでも肉体の死に向かって進んでいるのですが、死が間近に迫らない限り、考えないようにするのが人の性なのでしょう。


 この詩人、どんなにこの世で栄華をきわめても、この世の人は、魂を贖い出すことはできないことをうたっています。確かに、私たちの救いは、人間の努力で達成することはできません。人に対して罪を犯した場合には、それは弁償したり、刑務所に入ることによって、人に対する罪の代償は払うことができますが、私たちは、人にではなく、創造主である神に対して反逆という罪を犯したことを理解した時に、はじめてその反逆の罪を赦すことができる、贖うことができるのは神しかいないと解るのではないかと思うのです。


20節「人は栄華のうちにあっても 悟ることがなければ 滅び失せる獣に等しい

私たちは神の息吹をうけて人間となっています、その主なる神のことを考えずに、朽ちていく世界の事ばかりを考え、神のことを悟らなければ、どんなにこの世でゆたかであっても、霊をうけていない獣と同じだと、私たちに語っています。


祈り

どうか、神による贖いの悟りを多くの方々が理解しますように、私たち主を信じる者たちを使われて、福音を伝える良きおとずれとなることができますように。

アーメン

文:森 宗孝


 
 
 

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