2025年5月6日 詩篇第1篇
- hccnichigo
- 5月6日
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更新日:5月6日
『幸いなこと』
「主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ」そのひとは幸いだ、その人は、ほとりに植えられた木のように、葉は枯れず、何をしても栄えるとあるのですが、肝心な聖句は「時が来ると」という聖句だと思うのです。水が豊かで、光注ぐほとりに植えられた木も、すぐには成長するわけではなく、充分な時がくると、実をむすぶように、私たちもいっぺんに、栄えるのではなく、神の時が来ることを待ち望み、成長する者となることが幸いである。そのためには主のみことばを昼も夜も口ずさむ訓練が必要とあります。
天草で出会って感銘を受けたバプテストの牧師先生は、このことばを実行されていた。例えば、天草から熊本市内に車で移動したりするには、2時間近くかかるのですが、彼が運転中、赤信号停車する度に、運転席の横に開かれている聖書箇所を読まれているのです。昼も夜もその教えを口ずさむことを、自ら実践されているのでした。
しかし、彼は、みことばを覚える、知識にするだけでは実がならないと強調します。私たちはみことばを食べること、みことばを咀嚼して自分の身体の栄養とすることが求められているのです。もしもみことばを知識として知るだけでしたら、私たちよりも、サタンのほうがずっとくわしいことは明白です。サタンは、このみことばの真意を曲げて私たちに迫ってきます。
さて、ヨハネの福音書第一章「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」と御子イエスを表しています。そして主イエスは言われました。そしてヨハネは6章53節で「まことに、まことに、あなたがたに言います。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちにいのちはありません。」そうしておおくの弟子たちが去って行ったともあります。
主イエスはことばなのです。主のことばを食べて自分の身体の栄養にする、みことばを覚えるだけではなく、食べなさいと主は語ってくださいました。そうすれば、神の時がくれば、必ず栄える、幸せなのだと詩篇1篇で表されています。
これから詩篇のデボーションが始まりますが、この最初の1篇が詩篇の全体を示しているとも言えますね。聖書のほとんどは、神から私たちへの語りかけの物語ですが、この詩篇では、人間である私たちから神に問いかけ、時には語り、また感謝する。心の旅が始まります。
祈り
詩篇には、人の感情が滲み出てくるので、論理的に理解したいと願う自分としては、どちらかと言うと苦手な聖書箇所なのですが、どうか導きがありますように、デボーションを通じて、心が広げられますように。アーメン
文:森 宗孝
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