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2025年5月28日 詩篇第23篇

  • hccnichigo
  • 5月28日
  • 読了時間: 2分

 聖書の中の「真珠」と呼ばれる、詩篇23篇。詩篇の中でも、とりわけ有名な詩篇の一つです。1節1節のことばが真珠のように美しく輝いています。

 そして、この詩篇は、ダビデの晩年の詩であると言われています。


 1,2節では、かつて羊飼いをしていたダビデだからこそ描ける、羊飼いである神と羊である自分との関係を美しく表現しています。

 3節は、ダビデが霊的に死んだ経験が背景にあると思われます。それはバテシェバとの姦通とウリヤの殺害という罪を犯したときの経験でしょう。そこから生き返るという経験は、ただ「御名のため」という、神の名誉のためであったことが分かります。

 4節は、戦士でもあったダビデはたびたび「死の陰の谷」を歩んだことでしょう。あるいは、実子アブサロムのクーデターによって都落ちした時のことかもしれません。ここに記されている「むちと杖」、私は長らく、これは自分に向けられている神の懲らしめだと受け取っていましたが、最近これは敵に向けられているものだという受け取り方もしています。あなたは、「むちと杖」は、誰に向けられていると感じるでしょうか。

 5節は、当時の習慣が背景にあります。それは、旅人が敵に襲われ、その旅人が家に逃げ込んで来た場合、家主を旅人を受け入れ共に敵と戦うというものです。神は、人生の旅人である私たちと共に戦ってくださり、余裕の勝利を与えてくださるのです。

 6節は、ダビデの生涯を締めくくるに相応しい、彼の信仰告白です。彼の実感は、自らの人生を振り返ったとき、神の恵みと慈しみが追いかけて来るようであったということです。

 そして、ダビデの生涯の願いを一言で現わすと、「いつまでも主の家に住むこと」でした。


 私たちも、自らの生涯の終わりに、このような美しい詩篇を奏でながら、主を賛美して過ごしたいものです。私たちの過去を振り返るとき、そこには神の恵みが満ち溢れています。将来を見るならば、そこには希望があります。

 過去には感謝、将来には希望、そして今この時は賛美、そんな人生を歩んでいきたいです。 


 天の父なる神さま

 私たちの主と共に歩む信仰生活、色々ことがありますが、そこには必ず神の恵みがあることを、後で振り返るときに、そこに感謝があることを、感謝いたします。いつもで主と共に、あなたの家に住む者でありたいです。どうか私たち弱き羊を導いてください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

文:関真士


 
 
 

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