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2025年5月14日 詩篇第9篇

  • hccnichigo
  • 5月14日
  • 読了時間: 2分

「私の敵は退くとき、御前でつまずき、ついえます。あなたが、私の正しい訴えを聞かれるからです。義の審判者として王座についておられるからです。」(3,4)


 ダビデは自身に注がれる神の恵みと、その恵みに対する応答としての賛美を記します。一方で、ダビデの敵に対する言及には容赦がありません。

「あなたは、国々を叱り、悪しき者を滅ぼし、彼らの名を、とこしえに消し去られました。」(5) 

 

 味方と敵に対する描写は正反対です。その味方か敵かの判断は、神の側にいるか、神に逆らう側にいるかの違いです。

 ダビデは神を中心に判断します。ですから神の味方である自分に敵対する者は、神に敵対する者とみなしました。


 私たちは、神の味方か敵か、どちらでしょうか。主イエスを信じて救われるということは、神が私たちの味方になってくださるということです。神に逆らう側にいた私たちを、神の側に入れてくださるということなのです。

「神が私たちの味方であるなら、誰が私たちに敵対できるでしょうか。」(ローマ8:31)

 神に逆らっていた私たちを、神の味方にしてくださった、これが救いの一つです。


 神は私たちの味方です。ですから誰も私たちの敵対することはできないのです。詩篇の中には、神の味方に対する祝福と、神の敵に対する裁きが記されています。私たちは、神の味方として神の祝福を受け取っていきたいと思います。


 天の父なる神さま

 あなたの恵みによって、あなたが私たちの味方になってくださったことを感謝します。私たちが神に従って、勝利から勝利に進むことができますように。間違っても、神に敵対することがないように、どうか弱き私たちの歩みを守ってください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

文:関真士


 
 
 

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