2025年2月5日 コリント人への手紙第一2章
- hccnichigo
- 2月5日
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「あなたがたの間で、イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリストのほかには、何も知るまいと決心していたからです。」(2)
パウロがコリントの街に来る前は、ギリシャのアテネで宣教しました。当時アテネの街には、哲学者、思想家たちが集まり、ひもすがら議論しあっているような状況がありました。そこでパウロもその議論に参加しキリストを弁証するのですが、結局、数多くある思想の一つとして扱われてしまうのです。
パウロは、人間の知識、知恵によっては、人はイエスをキリストだと信じることは出来ないということを痛感したのでしょう。ですから彼は「十字架につけられたキリスト」を愚直に語っていくことを決心するのです。
「私のことばと宣教は、説得力のある知恵のことばによるものではなく、御霊と御力の現れるによるものでした。」(4)
人を救うのは、あくまでも御霊の働きであるということです。
私たちの宣教のことばも、相手に合わせて出来る限り分かりやすく、理路整然と、伝わることばで語ることが基本です。ことばが難解だったり、論理構成が支離滅裂だったりしたら相手に伝わりません。
しかし、相手を説得しようと理屈で論破するような伝え方であったり、相手の反論の余地がないほどに完璧な理論武装をしても、それでその人がイエスを信じるかと言えば、そんなことはありません。
私たちは最善を尽くしながらも、やはり御霊の働きがあって初めて人は、イエスを信じることができるのです。そして、御霊の働きとは、イエスの十字架を語るときこそあるのです。
時代と共に宣教の方法や表現の仕方は変わっても、イエスの十字架を語ることが宣教のことばであることは変わることのない真理です。
どんな時も「十字架につけられたキリスト」を語り続けて行きたいと思います。
天の父なる神さま
「十字架につけられたキリスト」イエスさま、あなたこそ私たちの救い主であり、宣べ伝えるべきお方です。どんな中にあっても、この宣教のことばを語り続けることができますように。どうか聖霊が私たちを励ましください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン 文:関真士
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