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2025年2月28日 コリント人への手紙第二9章

  • hccnichigo
  • 2月28日
  • 読了時間: 3分

 先の章に続き、この章でも献金について、特にエルサレムの聖徒たちへの支援金のための献金が課題とされています。


 ある注解書が教えることは、新約聖書は現実的な本であって、その大きな特徴の一つは、報酬目当ての動機を少しも恐れていないことです。「少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者、豊かに刈り取ります。」(6節)とパウロが言うことは正にその通りです。そして、私たちが惜しみなく施しをするとき、私たち自身がその報酬として、あふれるばかりの富をいただけるかもしれないけれど、それよりもっと価値のある神への感謝と喜びをいただけると言ってます。そして、更に最高の報酬として、「神はそういう私たちを喜んで愛してくださる」と語っています。(7節)


 私たちが惜しみなく施すことは神が私たちに切に望んでおられることであり、また私たちが当然なすべきことなのです。それは、8節にある通り、神はそれができるように、私たちが「常にすべてのことにおいて満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えてくださる」からです。


 私自身教会に通い始めたころ、この献金ということに躊躇しました。。しかしある方が、7節の聖句を講談で引用されました。「ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。」それを聞いて、心に安らぎを頂き、まるで政府に税金を払うように、教会員としての義務を全うするためにいやいやながら捧げなくてもいいのだと理解できて、喜んで捧げることができるようになったことを思い出します。


 そしてこの原則は、教会における献金だけでなく、この世の困窮の中にいる人たちに対する施しにも適応されるべきです。人に施しを与えるときは、義務感に押されてではなく、また施すときの自分の快感とか、特権意識からくる誇示とか、自分を美化するためなどのいわゆる自己満足からではなく、純粋にキリストの愛と恵みをもってするべきと教えています。私たちも、愛に迫られて与える、そうせずにはおられないから施す者となりたいものです。


 更に、この惜しみなく与えるキリスト者の寛大さは、それを見る他の多くの人々がキリスト者のキリストの福音に対する従順さを示すことであると知って、神をあがめるようになるのです。(13節)福音を広げることになるのです。


 この章の最後では、パウロはコリントの人たちの思いを、イエス様という神からの私たちへの無条件の最高にすばらしい恵みへと向けさせています。パウロはこの素晴らしい恵みに彼らの思いを向けさせて、「あなたたちは神からこれほどまでに豊かな恵みを受けているのだから、人々に対して、寛大になれるのは当然ではないか」と悟らせようとしているように思えます。



愛する天のお父さま、今日の御言葉を感謝します。私たちが、したくないことをしなければならないときは、気持ちを切り換え、率先して、喜んでするようにさせてください。同じ行いでも、自発的にするか、いやいやながらするかでは、その価値や結果は全く違ったものになると思います。どうか主よ、私たちが喜んで与えるものとなりますようにお導きください。そしてそんな私たちを喜んでくださり、私たちをさらに祝福してくださいますように。イエスキリストの聖名によって祈ります。アーメン


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