top of page

2025年2月21日 コリント人への手紙第二2章

  • hccnichigo
  • 2月21日
  • 読了時間: 2分

『パウロの苦難』


 パウロは自分に対する批判を強く意識して、そのような批判に対する反論としてこの第二の手紙を書きました。彼の伝道活動には常に非常な苦難が伴っていました。


 究極的にはパウロは自分の伝道を、十字架に向かって苦難の道を歩まれたキリストの道に重ね合わせています。パウロは、なぜ彼の伝道活動がこんなに困難を極めているのか、その理由とはイエス・キリストの伝道の生涯も困難を極めていたからだ、と言っているのです。パウロの伝道の目的とは、イエス・キリストを人々に示すことです。パウロは、自分は言葉だけではなく、その苦難に満ちた伝道活動そのものによって、イエス・キリストを、イエス・キリストの香りを人々に示しているのだ、と語っています。十字架へと向かうイエス・キリストの道のりは、普通の感覚で見れば死に向かう道のりですが、実際には、それはいのちへと至る道のりで、しかも、自分がいのちに至るだけでなく、他の多くの人をもいのちに至らせる道のりです。

 

 このようなパウロの十字架の歩みに対して、人々の反応は分かれます。私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神に捧げられた芳しいキリストの香りなのです。(15節)パウロはさらにこう言っています。滅びる人々にとっては、死から出て死に至らせる香りであり、救われる人々にとっては、いのちから出ていのちに至らせる香りですと。(16節)


 パウロは、自分が愛するコリント教会の人から、あらぬ疑いをかけられて困惑していました。パウロは神の使者として、神のために働いているのにどうしてこんなに苦しむのか、なぜ神はパウロを助けないのか、その答えとは、キリストもまた苦難の生涯を送ったからです。パウロの苦難の伝道人生は、キリストのそれをまさに反映し、その繰り返しです。


主の祈り:イエス・キリストの父なる神様、その御名を讃美します。今日はパウロが自分の伝道生涯の苦しみの意味を語り、その苦しみとは、キリストの苦難をなぞり、キリストの姿を人々に示すためであることを学びました。私たちは小さく弱い者ですが、それでもパウロのように、私たちの歩みを通じて周りの人たちにキリストを示す者とさせてください。私たちの救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン


 
 
 

最新記事

すべて表示
2025年11月13日 伝道者の書3章

「すべてのことには定まった時期があり、  天の下のすべての営みに時がある。」1節 「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」11節(抜粋)  伝道者の書3章には皆さんもよくご存知の名句がでてきます。 「すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある。」1節 その時はすべて神ご自身の御心次第である。私が、この章で一番心に示されたのは、2節の御言葉である。 「生まれるのに時が

 
 
 
2025年11月12日 伝道者の書2章

「わたしは、心の中で行った。『さあ、快楽を味わってみるがよい。楽しんでみるがよい。』しかし、これもまた、なんと空しいことか。」(1)  4節から8節に記されているように、ソロモンは栄華の限りを尽くしました。おおよそ人間が求めるすべての欲求を満たしました。物欲、性欲、食欲、名誉欲、知識欲、さらに知恵…。「そして私は偉大な者になった。」(9)と告白しました。  しかし彼は告白します。 「見よ、すべてが

 
 
 
2025年11月11日 伝道者の書1章

『空の空』  日本史にでてくる、豊臣秀吉は、庶民が憧れる太閤様でした、貧しい身から出世して、天下を取るまでのぼりつめて、人の目には、栄華をきよめた一生と映るのです。しかし彼の辞世の句は「露とおち露と消えにし我が身かな浪速(なにわ=大阪)のことも 夢のまた夢」 露のように消えてしまう身よ、あの華やかな浪速の出来事さえも、いまでは、すべて夢のまた夢、という世を去る太閤様の最期の句でした。確かに私たちの

 
 
 

コメント


bottom of page