「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。それで私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができます。」ー4節ー
今日からコリント人への手紙第二に入ります。1章でパウロは「神の慰め」について語っています。私が以前に苦しみにあった時に、どうして神は私にこのような苦しみを与えられるのかと悩み落ち込んだことがあります。誰もが経験することだと思います。だがパウロは、ここではっきりとその理由を述べています。
私たちが受ける苦しみには神の目的があり、それは、私たちが神の愛と慰めを知るだめだと述べています。しかし、パウロはさらに語っています。苦しみはただ神の慰めを知ることが目的ではなく、神の慰めによって、他の苦しみの中にいる人々を慰めるためであると言っています。
私たちは自分たちが苦しみにあった経験がなければ他者を慰めることはできません。ある牧師が語られたことに心が動かされました。
「人は、いや神でさえも、苦しみにあうことなしに、他の人を慰めることはできません。慰めというものはそういうものです。自分が似たような経験をして、初めてその人の苦しみを共有することができます。それゆえ、苦しみはとても尊いものなのです。」
自分が苦しんでいる時に、果たして、苦しみがとても尊いものであるということを受け入れることができるだろうかと思わされるところであります。そのようになるには、聖霊により、御言葉をしっかりと心にたくわえていただけるように祈っていくことではないでしょうか。
教会で多くの人たちがそれぞれの問題、苦しみを持っておられます。パウロは、そのお一人一人の苦しみと慰めは教会全体のものとして、キリストにある希望につながると言っています。神がキリストを通して与えてくださるこの慰めによって、私たちも、苦難の中にある人を慰めることができると語っています。
「慰めはただ神から受けることができる」ということは幸いです。自分が、神から受けた慰めを今、苦難の中におられる方々を慰めることができますようにどうぞ用いてください。そして、自分自身が苦しみにあった時に「苦しみにあったことは幸いだった」という御言葉を受け入れることができますように導いてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン
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