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2025年2月12日 コリント人への手紙第一9章

hccnichigo

「私は、誰に対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷になりました。ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。律法の下にある人たちには、―私自身は律法の下にはいませんがー 律法の下にある者のようになりました。律法の下にある人たちを獲得するためです。ーーーー弱い人たちには、弱い者になりました。弱い人たちを獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。何とかして、何人かでも救うためです。」(19~22)


 パウロは、与えられた自由を伝道のために捧げました。それが彼の自由でした。相手のようになる、それは相手の状況、状態に寄り添うことを意味しています。「弱い人たち」に対して、助けるために強くなったのではなく「弱い者になりました」と言うのです。相手を裁き、否定することではなく、まず相手の人格、歴史、文化を尊重し、耳を傾け、その人を大切に扱うことなのです。伝道は、相手を愛することなのです。伝道という名のもとに、あなたのためにという名分のもと、相手の人格を否定することがあってはならないのです。そこに愛はないからです。愛のない所に神は見えません。なぜなら神は愛だからです。

 このパウロのこの姿勢はまさにイエス・キリストのお姿です。イエスは、罪人ではないのに、罪人のようになって十字架にかかりました。パウロの内には、キリストの心が満ち満ちているのです。


 私もイエスの心が欲しいです。その心が私の心となり、私の内に満ち満ちますように。そのために、もっとイエスの心を知りたいと心から願います。


  

 天の父なる神さま

 イエスさま、あなたの心をください。私の心を、あなたの愛で満たしてください。その心をもって宣教に励むことができますように。出会う一人ひとりの存在を大切にし、あなたを証することができますように。どうか私を聖霊に満たしてください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン                                             文:関真士


 
 
 

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