『二人が心を一つにし祈る』
この7章は淫らな環境にあったコリント、それは現代でも文明の繁栄の影に、必ず起こる道徳の敗退に対する、独身伝道者パウロの結婚に対する助言の書だと思います。確かに、ギリシャ文明やローマ文明が最大に花咲いた時に、道徳の乱れ、特に性の乱れが起こったように、現代社会も、文明は発達したものの、世間では同じ問題に直面しているのではないでしょうか。
ここで、パウロは結婚が人生のすべてとは言っておりません。7節「私が願うのは、すべての人が私のように独身であることです。しかし、一人ひとり神から与えられた賜物があるので、人それぞれの生き方があります。」と自分の考えを述べていますが、その背後には、終わりの日が迫っているから、主の事をまず考えなさいという思いの上での助言なので決して結婚を否定しているわけではありません。
しかし、32〜34節抜粋「独身者は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を配る、しかし結婚した男は、どうすれば妻に喜ばれるか、妻は夫を喜ばせようと世のことに心を配る」ずいぶん上手に結婚した夫婦の心を言い当てていますが、パウロは同時に、主にある結婚を勧めているのです。
それでは、主にある結婚とはどのようなものなのか。石と石が一緒になっても別々で、いずれ別れてしまいますが、水滴と水滴が一緒になると一つになるように、心をひとつにして主に祈る夫婦をパウロは描こうとしているのではないかと思うのです。
マタイ18章19節主イエスのことば「まことに、もう一度あなたがたに言います。あなたがたのうちの二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。」
そして、パウロは、結婚について夫と妻が一体になることには、神の奥義があるのですとも書いているのです。エペソ5章31~32節「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体になるのである。」この奥義は偉大です。私は、キリストと教会を指して言っているのです。」
7章は、確かに結婚の中での問題、離婚について、独身について語っていますが、その根底には、果たして二人が心をひとつにして、主に祈ることができるのか、できないのかを基準にしなさいと言われているように思いました。
祈り
どうか夫婦として、心をひとつにして主に祈り続けることを毎日の優先とすることができますように、独身であれば主のみこころを願うことを優先できますように導き下さい。 アーメン
文:森 宗孝
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