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2025年10月22日 箴言12章

  • hccnichigo
  • 10月22日
  • 読了時間: 2分

1節「訓戒を愛する人は知識を愛する。 叱責を憎む者は間抜け者。


 聖書に記された神の言葉は、耳障りの良い、甘い蜜のような言葉だけではなく、「訓戒」、すなわち、戒めの言葉であったり、私たちの生き方を改めるように迫ってくる神の言葉もあることを忘れてはなりません。

 神を愛する者は、自分の耳に心地の良い神の言葉も、自分の口には苦くても、私たちを神の義に導くために語られる神の訓戒や知識、あるいは叱責、そして、悔い改めへ招く神の言葉も、全てを神の言葉として受け止めて、それに応答する者です。


 聖書全体を貫く一つの原則、それは、「人は、自分の生き方や行動に伴う実を、自ら刈り取ることになる」ということがあります。箴言においても、そのことは書全体を通して語られています。


 箴言では、主を恐れて、訓戒を尊ぶ人のことを「正しい人」、逆に、主を恐れることなく、神の言葉を尊ばない人のことを「悪しき人」であると語っています。この12章に限らず、箴言全体、ひいては、聖書全体が、正しい人が刈り取る実と、悪しき人が刈り取る実の違いについて、語っています。


 箴言12章で、具体的に語られている「正しい人と悪しき人が刈り取る実の違い」は以下のようなものです。


3 人は悪で身を堅く立てることはできない。  

  正しい人の根は揺るがない。


7 悪しき者は打ち倒されて、いなくなる。  

  しかし、正しい人の家は立ち続ける。


13 悪人は唇で背いて罠にかかる。 

  正しい人は苦しみから逃れ出る。


 そして、箴言12章は、次のような言葉で締めくくられています。


 28節「義の道にはいのちがあり、 その道筋には死がない。


 これがすなわち、12章の結論です。つまり、イエス・キリストを信じる信仰によって与えられる「義」の道を生きる者が刈り取る実、それは、「いのち」であり、「その道筋には死がない」、と箴言の言葉は私たちに教えているのです。

 そして逆に、イエス・キリストを信じる信仰に生きない者。その者が刈り取る実は、死である。神との断絶である。そのことも語っています。「罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」(ローマ6:23)と、聖書が語っている通りです。

 イエス・キリストを信じる信仰を持ってこの地上を生きることに対して、私たちは時に、虚しくなったり、報いがないように感じられることもあるかもしれません。しかし聖書は、「正しい人」は、必ずそのいのちの実を刈り取ることを約束しています。


文:中川祐真


 
 
 

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