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2025年1月9日 エズラ記8章

hccnichigo

「私たちの神の御手が私たちの上にあり、その道中、敵の手、待ち伏せする者の手から私たちを救い出してくださった。」31節(抜粋)


 神の御手とはどういうことかといいますと、エズラに助け人が与えられたことと、

神の宮への奉納物である銀、金、器などの高価なものを運ぶ道中が主によって守られたことです。なぜ神の御手が自分たちのうえにあったのかというと、エズラはペルシャの王に護衛を求めることをせず、ただ主にのみ拠り頼む信仰を貫いたからです。みなが揃って断食して、自分たちの神に願い求めたからです。


 エズラとその民がアハワに流れる川のほとりに三日間宿営した時にレビ人がいないのを知ったエズラは何とかして彼らを送ってもらうように紛争したのである。その結果数人の兄弟たちが連れてこられました。それは、神の御手が彼らの上にあったからと18節で述べられています。


 なぜエズラがそこまでレビ人にこだわるのかを検索したところ、彼は、神殿礼拝においても、また神の民の再建においても、レビ人の存在と働きが必要であることをよく知っていたに違いないと言われています。レビ人は神殿礼拝の働き人だけにとどまらず、民たちに律法を解き明かす働きをします。(ネヘミヤ8:8~9)エズラが集めたレビ人の数は優秀な人たちと彼らに仕える者たちも合わせると総勢258名にものぼったと解説者は述べています。

 神の民の再建は、神のみおしえを民の一人一人に浸透させていくためには、エズラ一人でできることではありません。多くの協力者を必要とします。特に、神のことばにかかわる有能な働き人が必要とされたと語られています。


 教会生活においても言えることだと思います。牧師一人に何でもしてもらうのではなくて、キリストの体である教会のために、教会員が互いに協力し合いそれぞれの賜物をいかして、主のために仕えていくことではないでしょうか。


「収穫は多いが、働き手が少ない。」―マタイの福音書9:37―


 天の父なる神さま。苦難の時に呼び求めるのは、主だけです。エズラが王に護衛を求めることは恥じであることを知り、自分たちの神に願い求めていくことに心うたれました。私たちも常にエズラのように神の守りに信頼し、祈り求めていくことができますように導いてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


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