『私は、死ななければならないのでしたら死にます。』
伝道者の書3章1〜2節「すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある。生まれるのに時があり、死ぬに時がある。植えるのに時があり、植えた物を抜くにも時がある。」
このエステル記の4章には、王妃として何の不自由なく宮殿で暮らしているエステルが、自分はユダヤ人であるという自覚を持って、身を挺して自分の民の救いのために、クセルクセス王に進言することを決意した場面です。エステルの前の王妃ワシュティは、王の呼びつけを拒んだとして、それ以降は王の前には出られなくなっていた、王の機嫌を誹ると、大変な目に会う事をエステルは知っていて、王に呼ばれもしないのに、尋ねる事さえ、処罰の対象になってしまう。それに対して、死ななければならないのでしたら死にます。この決意がエステル王妃のユダヤ人としての覚悟でした。
しかし、同時に、これは自分だけの行為ではない、ユダヤ人の祈りの支えが必要であることもエステルは知っていました。育ての親である、叔父のモルデカイに、スサにいるユダヤ人をみな集め、私のために三日三晩断食するように求めました。真剣な祈りが必要だったのです。すでに王の名前でユダヤ人処刑の勅令が各地に出されている状況の中での、最後の賭けといっても良いかもしれません。
この時のクセルクセス王が統治していたのは、インドからエジプト、さらにエチオピアまでの127州を治めていたとありますから、この時代のいわば全世界を治めている王ですから、その権力たるやかつてなかったほどの力があったわけです。その王の法令の中で、召されないのに奥の中庭に入って王の所に行く者は、男でも女でも死刑に処されるという法令があったのです。エステルは召されていないのに、王に会いにゆこうと死を決して、決断したのでした。自分が生まれてきた、その目的は、これにかかっていると自覚したのではないでしょうか。何の不自由もなく王妃として、幸せに囲まれているエステルの、魂の中には、ユダヤ人としての誇り、同胞への愛、鉄のような意志をもった女性として、今でもユダヤ人に愛されているエステル妃であります。
祈り
私たちの中にも、この世では避難され、迫害される事ながら、主に召された方々がおられることを知っております。私たち自身が選ばれていないとしても、どうか私たちも祈りと彼らの手助けができる者でありますように力をお与え下さい。アーメン
文:森 宗孝
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